初めておたよりさせていただきます。私は幸福の科学を昨年脱会したものです。大学生です。入学当初に勧誘され、先輩の非常な勢い(ひたすらそのひとの思いこみ)によって、また自分の優柔不断さもあって会に入会しました。脱会した今、この教団を批判的にとらえることで自分の気持ちを整理したいと思ってメールを出させていただきました。佐倉さんの意見を何でもいいのでお聞きしたいのです。
私の意見ですが、この教団は危険なカルトに入ると思います。オウムのように破壊的な行動にでることは考えられませんが、個人の思想というものが全く奪われてしまう点では典型的なカルトです。私は入会して何が一番苦しかったかというと、お布施をすることでもなく(強制は全くなかった)、会の書籍を買いに行く(こうすることでヒットさせる。でも料金は会が払ってくれる)ことでもなく、自分が日ごろ生きていく上で根本にあるものが自分の意志でなく、会が言っている世界にある、ということだったのです。本当につらいことでした。今でもその苦しみが抜けません(でも同じ脱会者の方とメールでやりとりしだしてから、この教団を客観的にとらえることが少しできるようになりました)。自分の気持ちを正直に言って、会によって私の心は見事に崩壊させられました。怒りを感じると同じに恐怖を覚えます。がネットで会のことを客観的に、批判的にとらえているサイトはあるかというと、佐倉さんのがあるくらいで(ほんとお疲れ様です)、他には全くといっていいほどありません。佐倉さんは他にこの教団について公平にとらえているサイトをご存知でしょうか?
なんだかとりとめも無い内容になってしまいました。でも私の意見は私の意見で佐倉さんの共感を得ようとは思いませんし、佐倉さんのポリシーに反することだとおもいます。ただ、脱会者が現実にいて、その危険性を訴える人間がここに一人いるのだということはお伝えする価値はあると思います。
長々としたメールの最後に一言、佐倉さん自体はこの教団に対してどのような点で疑問を感じていらっしゃるのか、短くて結構ですので(ホントは長いほうがうれしい)コメントをください。お仕事の最中本当に申し訳ありません。それでは失礼します。
(1)個人の思想が失われる
私の意見ですが、この教団は危険なカルトに入ると思います。オウムのように破壊的な行動にでることは考えられませんが、点では典型的なカルトです。大川さんの教えを読んでみても、
「地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それは、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、そうした代理人[わたし、大川隆法]が地上に降りてゆく時には、その者[わたし、大川隆法]の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。」ここに寄せられる信者の方のご意見を読んでみても、(大川隆法、『仏陀再誕:縁生の弟子達へのメッセージ』、310〜311頁)
「信仰は信じきる事です。猜疑の中で、真の教えの理解など有り得るはずがないのです。というか、1%でも疑いを持った時、それを信仰とは言わないのです。」(グラールさん)一大学生さんの「個人の思想というものが全く奪われてしまう」という判断は、幸福の科学の実体を反映しているものと思われます。「私は、幸福の科学の教えは、仏陀の魂の本体であるエル・カンターレが地上に下生された存在であるところの大川総裁によって説かれているものである、と信じているのですから、わざわざ昔のお釈迦様の教えを伝えているという仏典にまで手を広げようとは思いませんし、それは幸福の科学の教えを信じる人間として、自然に出てくる姿勢だと思います。」(向さん)
(2)わたしと幸福の科学
佐倉さん自体はこの教団に対してどのような点で疑問を感じていらっしゃるのか、短くて結構ですので・・・コメントをください。わたしと幸福の科学との関わりは、わたしが仏教に関するエッセイを公開しており、それに関して幸福の科学の信者である梅本さんと意見を交換したこと(『仏教における「魂」と「神」』)に端を発しています。それまでは、幸福の科学については何も知りませんでした。また、この時点では、まだ、わたしは幸福の科学についてなんの特別の関心も抱いていません。梅本さんがどんな宗教団体に所属しておられようが、わたしにはどうでもよいことでした。読んでいただければわかりますように、わたしは梅本さんと個人的な仏教論議をやっていたのです。
わたしが「ちょっとへんだな」と思い始めたのは、高橋さんから一連のお便りをいただいたときからです。
98年 9月19日 「私の無我の考えです」高橋さんより問題は、高橋さんによれば、「死後魂が天国に行くのが救い」で、その枠組みだけで仏教全体を理解されているところにあります。98年 9月23日 「仏教は天国に帰ることを教える」高橋さんより
98年 9月25日 「仏教無霊魂説はまちがっている」高橋さんより
98年 9月27日 「無我と形而上学」高橋さんより
98年 9月30日 「現代のアビダルマになるなかれ」高橋さんより
仏教は膨大な思想の山です。それをほじくれば「生天思想」(天国に生まれ変るという教え)のようなものもないわけではありません。しかし、仏典をしばらく学んでいれば、それが仏教の中心思想ではありえないこと〔あってもなくても仏教は成立する)は、誰の目にもあきらかになるでしょう。
そして、仏教が、「生天思想」や「輪廻転生」 -- それらはみなインドの土着思想 -- などを語るときでも、永遠不変の魂の存在を主張しないように、非常に気をつけて語っているのです。他のインドの宗教と違って、「輪廻転生」を語るとき、「輪廻転生」するところの当のもの(永遠不変の魂)の存在を主張しないのが仏教なのです。そこに他のインドの宗教から分かたれる仏教の特徴があります。
こういう仏教の特徴を生んだのは、原始仏教が、魂とか死後の世界といった、人間に経験できない事柄については、「無記」(沈黙して何も主張せず)の立場を取ったからです。そのため原始仏教は、死後人間が生き残る、と言う立場もとらず、死後人間は生き残らず無と化してしまう、という立場もとらず、そのいずれの立場も取ることなく、自分たちの立場を「中道」と呼びました。
そういう仏教の特徴を無視して、魂や死後の世界の存在を積極的に主張し、「死後魂が天国に行くのが救い」という枠組みだけで仏教を解釈し、それ以外を(たとえば「唯物論」=悪魔の思想として)仏教から排斥する立場をとるのが幸福の科学の教えなのだと、だんだんわかってきました。
なぜ、幸福の科学では、こういう仏教理解になってしまっているのでしょうか。わたしの理解ではこういうことです。死んだ後にタマシイがあの世にに逝くという考えは日本の土着信仰で、日本の多くの新興宗教にも取り入れられている考えです。その土着信仰と仏教思想を取り混ぜた新興宗教の一つがGLA教団で、幸福の科学はそこから派生した宗教です。そのために、「死後魂が天国に行くのが救い」ということが、その教えの中心となっており、そのため、その枠組みだけで仏教を解釈せざるを得ず、その結果、それ以外の考えを仏教から排斥する立場をとることになったのだ、とわたしは考えています。
こうして、幸福の科学の方からメールをいただいたことに端を発して、大川さんの著作にも目を通したり、たまたま近所にあった、幸福の科学の支部を訪れたりすることとなり、幸福の科学の教えは、仏典や伝統的仏教の教えとは根本的に異質な教えである、という結論にいたりました。しかし、問題は、それが、仏教の教えと違うところにあるのではありません。仏教が非真理で、幸福の科学が真理である、ということも考えられるからです。問題は、むしろ、かれらがそれをブッダの教えであると宣伝している(釈迦の像の表紙の本を買ったら、大川さんの教えを読まされる)ところにあり、しかも、仏典など読まなくても、それがブッダの教えだと主張できるのだ、というかれらの姿勢にあると言えるでしょう。
(3)幸福の科学の問題点
さて、こういう姿勢を生んでいるいくつかの理由をあげてみますと、
(ア)偏狭な排他主義。霊魂主義・霊界主義への執着。魂や死後の世界を信じない世界観に存在価値をまったく与えることのできない偏狭な排他主義。などが挙げられるのではないでしょうか。(イ)独裁主義・思想的奴隷。真理は神仏の教えるものであり、その教えは、神仏が地上に送ってこられた大川さんを通して人類に与えられる。したがって、大川さんの言うことが真理であり。大川さんがすべてであり、それを1%も疑ってはならない。
(ウ)幸福至上主義。「幸福感覚が強くなったなら、その人にとって正しい教えであったということです」という投稿にみられるように、事実かどうかわからなくても、永遠に生きる魂があるのだという教えは幸福を感じさせるので「正しい」。大川さんの思想的奴隷になっても幸福を感じるので「正しい」。
(エ)霊魂主義。霊魂や霊界が自己や世界の本質であって、体や物質世界は仮の世界。そこで、事実を調べなくても、自分の心中で確信する(そうであって欲しい強い欲求がある)だけで「正しい」という判断をしてしまう。
(4)最後に
こういうことだけを書いていますと、わたしは幸福の科学を憎んでいるのではないか、と誤解される恐れもありますので、最後につけ添えておきます。わたしは、むしろ、幸福の科学の人々に人間的に好意を持っています。好意を持っているからこそ、なんのわだかまりもなく、その考えを批判することがでるのかもしれません。
ですから、たとえば、「幸福の科学に反対する会」(そういうのがあるかどうか知りませんが)を立ち上げる、などというのはわたしの趣味に反することです。幸福の科学を脱会されたそうですが、一時的にでも、幸福の科学におられたのですから、なにかそこにご自分を惹きつけるものがあったに違いありません。何から何まで幸福の科学を否定することもないとおもいます。反対勢力をつくってそのなかに自分を埋めるのでは元の木阿弥です(そういうことはないと思いますが・・・)。
反対者の意見も参考にはなると思いますが、もし本気で「自分の気持ちを整理したい」と思われるなら、最終的には、ご自分で、大川さんの思想そのものと直接対決すべきだと思います。反対サイトなどを探すよりは、たった一人で、大川さんの著書に向かうべきです。そして信者以上に徹底してそれを調べるべきです。
人間ならば通常、どんな書物を学んでも、「どう考えてもそれは正しい」「どちらかというと正しいと思う」「どっちとも言えない」「どちらかというと間違っていると思う」「どう考えてもそれは間違っている」といった具合に、その部分部分において、肯定的なものから否定的なものに至るまで、判断にさまざまな程度の差が出てくるものです。ドグマの信仰者ならば、自分の心の中で否定的判断を抑圧するでしょう。「わからないのは自分がまだ成長していないからだ」「今はわからないけれど、そのうちわかるようになる」「そういうふうに言われているのは人間にはわからない深い神の理由があるのだ」等々。しかし、いまや、ドグマの奴隷ではなく、真理の探究者となったのならば、自分の心に正直に判断を下すことができます。「教祖の言うことだろうが、誰の言うことだろうが、間違っているものは間違っているのだ。きちがいの言うことだろうが、誰の言うことだろうが、正しいものは正しいのだ」と。
どのようにして大川さんの著書を分析することができるでしょうか。大川さんのように自分を神の代理者として豪語する人の場合には、間違い探しがいちばんよい方法だと思います。徹底した間違い探しです。どんな小さな間違いでもよいのです。なぜなら、もし大川さんが神ではなくただの人間ならば、大川さんの主張の中には、間違いが必ず見つかるはずだからです。そして、天上の神に関してならわたしたち凡人の手には負えないけれど、地上の神なら本物かどうか調べることができます。そして、大川さんの言っていることには間違ったこともあるんだとわかれば、自分の正直な気持ち(「ちょっとそれはどうかなあ」)を抑圧してまでも、無理に大川さんの言うことを信じ込む必要はなくなります。そうなれば、自分の知的良心に忠実に、確実と思えるものは確実なものとして、あやふやなものはあやふやなものとして、間違いであると思われるものは間違っているものとして、大川さんの思想に接することができるようになるでしょう。
(「聖書の間違い:はじめに」や「大川隆法の霊示」参照してみてください。)