ずいぶん仏典を勉強されているようで驚きました。

しかし、悟りとは心で感じるもので頭で理解しようとしても限界があると思います。 「無我」とは悟りの言葉なので無我の悟りに達した人でないと真の理解はできないで しょう。 もちろん自分にもその限界はありますが今感じている範囲で述べます。

「無我」とは「自我」との対比の言葉である。 仏は「自我(偽我)を捨て去り無我(真我)になりなさい」とお説きになられた。 天上界より母の胎内に降りた魂(無我、真我)が肉体を持つことによって 年とともにいろいろな欲に振り回される自分(自我、偽我)になります。 すべての苦しみの原因はそこにあるから無我になる修行を教えているのです。

無我とはたんにあの世も魂もないという意味ならそのように思っている人は 過去にも現代にも無数にいます。それを仏が悟ったというなら 悟りといえるほどのものではないでしょう。

仏の悟りとは大きな救済力を持ったものです。 大きな智慧の力で迷い苦しみにある人々を救済するものです。 無我を説くことによって多くの人が救われたのです。

無我(アナートマン)や自我(アートマン)という言葉は同時に 「魂がない」「魂」という意味もあるので誤解される素地があったと言えます。 釈迦没後三百年ほど後にそのような解釈の派ができたと記憶しています。

冷静に考えてみてください。 あの世も魂もないなら仏教のやっていることの大半は無意味なものです。 六道輪廻も過去世物語も方便をとおり越して嘘をついていたことになります。 片方であの世を否定し、かたほうであの世の話ばかりしていたことになります。 そうではなく仏は真実を真実であるがゆえに語っていたのです。

無我がわかるとやがてその奥にある空が見えてくるでしょう。 空は縁起なのではなく縁起がわかるとやはり空が見えてくるのだと思います。 また神々とは神格を持った高級霊のことで仏はその上の立場にあり、 神々もまた仏の説法を聞きにきて感動していたことは梵天勧請でもわかります。

無我はまだまだ奥深いものがあり、乱暴な説明かとは思います。 無我の立場に立つと世界はどう見えるのか、この世とあの世がどう見えるのか、 人生の使命や目的は、そして苦しみや悲しみの意味は、 興味が尽きません。 私もいつかは悟れるよう日々精進したいと思っています。 当然転生輪廻が前提で話をしています。

T.高橋

「輪廻する魂が存在するかどうか」という主張はだれでも勝手に主張できますが、「仏教は輪廻する魂を認めていたのか」、というような問いは、歴史的に客観的な根拠を提示しなければなりません。「わたしは悟ったのだ」とどんなに主張しても、それは、そのひとの主観的な主張に過ぎず、その人の主張がはたして史的ブッダの思想と同じかどうかは、まったく別の問題(歴史の問題)だからです。

仏教はもともと「輪廻する魂」を認めていなかった、というわたしの考えは、その文献的根拠を提示して、すでに「仏教における神と魂」において説明しましたので、ここでは繰り返しません。 ここでは、なぜ、巷では、しばしば仏教が「輪廻する魂」を教えているとおもわれているのか、それを考察したいと思います。

もうかなり前になりますが、学生としてニューヨークに住んでいたころ、わたしは中国(台湾)から来られていたある禅師のお寺を訪問しました。法話が終わった後、質疑応答の時がもたれましたが、そのとき禅師は、輪廻転生する魂などないことを当然のごとく語られていましたが、わたしと同じように、はじめてここを訪ねていた(自称仏教徒の)あるアメリカ人が、それを聞いて、とても信じられないという顔をして、「どうして輪廻転生する魂などないとわかるのか」などと、一生懸命食い下がっていました。彼は、仏教は輪廻転生する魂を教えていると、巷に出回っている仏教に関する紹介書のようなものを読んで、そのまま信じていたのだそうです。

同じようなことは、大学での仏教のゼミナールにおいてもありました。何ヶ月もみんなで仏典を詳しくを研究していくうちに、仏教が実は輪廻転生する魂を否定していることが誰の目にもだんだん明らかになっていったのですが、そのとき、参加していた一人のアメリカ人の学生がたいへん失望して、とつぜん、「もし人間の生が死をもって終わりとだとすると、すべての努力は無駄ではないか、仏教はニヒリズムではないか・・・」と言い出したことがあります。彼も、以前、巷に出回っている仏教に関する紹介書のようなものを読んで、仏教は「永遠の魂」を教えていると、思い込んでいたのです。

これらの例は、キリスト教に反発して仏教を求めながらも、じつはキリスト教の永遠の魂の教えを引きずったまま、困惑するアメリカ人の仏教との出会いを示しています。キリスト者であったときと同じように、仏教にも彼らはその彼らの救いの根拠を魂に求めていたのです。わたしは、ここに、なぜ仏教が「輪廻する魂」を教えていると誤解されているか、それを理解する鍵があるように思われます。つまり、何らかの理由で、仏教に魅かれ、仏教の世界に足を踏み入れるのですが、以前から信じていた「魂の教え」をそのまま、仏教の世界に引きずりこんでしまっているのです。

この問題は、とくに日本においては見逃すことのできない問題だと思います。仏教は、それが伝わった土地に影響を与えるだけでなく、仏教そのものも、それぞれの土地から影響を受けて、さまざまな変遷を繰り返しています。仏教が中国に伝わったとき、仏教は中国に影響を与えましたが、仏教も中国の影響をうけて変化しました。おなじように、仏教が日本に伝わったとき、仏教は日本に影響を与えましたが、仏教も日本から影響を受けました。たとえば、日本の土着宗教には、死んだら魂が「あの世」に行く、という考えがあります。また、死んだ魂を慰めるという習慣があります。そういう伝統の中にある日本人が仏教に出会ったとき、日本人は、その土着宗教の魂の考えをそのまま引きずって、仏教に持ち込みました。そのようにして出来上がった宗教が、巷に広がっている「日本仏教」です。浄土思想の「あの世へ行く」思想は、仏教というよりも、日本の土着宗教を仏教概念で言い換えたものといえます。死んだ霊を慰める日本仏教の行事など、仏教とはまったく関係ない、純粋に日本の土着宗教の習慣です。

こうして、仏教に出会う前から信じられていた魂に関する教えが、そのまま仏教に持ち込まれたことによって、もともとなかった、輪廻する魂の教えがまるで仏教の教えであるかのごとく、巷で信じられるようになったと考えられます。

果たして、この観点から、現代の宗教を再び点検してみると、たしかに、この想定は間違っていないように思われます。たとえば、オウム真理教を見てみましょう。オウム真理教はもともとヨガのグループ、つまりヒンズー教(バラモン教)だったわけです。それがいつの間にか、まったく無反省的に、うやむやに、(バラモン教を否定した)仏教でもあるかのごとくなっていったわけですから、彼らの仏教が永遠の魂を説くのも無理はありません。(後には麻原教祖はキリスト宣言さえしました。) 彼らの薄い仏教の覆いの下には、ヒンズー教の正体がそのままあるのです。

同じような事態は、「幸福の科学」という宗教にも見ることができます。「幸福の科学」も単純に仏教ではありません。「幸福の科学」の教えには、非常に強い、日本の土着宗教の習慣が取り込まれています。仏教とはまったく関係のない、先祖供養や死者の霊を慰める行事などがとても重要視されているようです。また、「幸福の科学」はギリシャの神話の神々なども取り入れているようで、ブッダや大川教祖は、ギリシャ神話の神エル・カンターレがこの世に姿を現したものだそうです。すなわち、魂の存在を信じる日本の土着宗教やギリシャ神話が、そのまま仏教と一緒に混在させられているわけです。彼らの仏教が永遠の魂を説くのも無理はありません。

仏教そのものの教えを客観的に追及できないのは、もともと仏教ではない宗教にあとから仏教の教えが取り入れられてできた混交宗教の限界ですが、これらの例は、仏教に出会う前から信じられていた魂に関する信仰が、そのまま仏教に持ち込まれたことによって、もともとなかった、輪廻する魂の教えがまるで仏教の教えであるかのごとく、信じられるようになったことをよく示していると思います。