聖書の間違い

はじめに

--- その目的と方法論 ---

佐倉 哲


「余輩は必ずしもキリスト教を説かず、余輩が真理と信ずることを説く。余輩は聖書が示すゆえに真理なりと言わず、真理なるが故に真理なりと言う。余輩は聖書を研究す、聖書に盲従せず。余輩は神の愛を信ず、ゆえに僭越を恐れずして余輩の確信を語る」(内村鑑三)

1996年7月4日初版 /1996年11月14日更新


目的

「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。

わたしたちは、実に様々なことを信じ、様々なことを主張しますが、その中には真理もあれば、まやかしもあります。どちらか決めかねるものも沢山あります。それらにいちいち懐疑の目を向けていては生活することもできません。実際、明日、太陽が昇るかどうかについて、わたしたちは確実な知識を持っているわけではないのに、当然明日は太陽が昇るものと信じて寝床につきます。「石橋を叩いていては、渡れない」という言葉もあります。

しかしながら、人間の様々な主張の中で、それが、ある特定の人間やその言葉を、絶対化したり神聖化するとき、そしてその主張が人々を動かし、社会を動かす大きな力を持つようになるとき、その主張を吟味することなく無視することは、歴史を振り返るとき、決して賢哲な判断とは思えません。自由で、オープンなディスカッションの中で、そのような主張は吟味されねばならない、とわたしには思われます。

そして、このことは、かつての十字軍や、大戦当時のナチや日本軍部や、現代のオウム真理教などのような、急激的破壊活動を行う運動の思想にだけでなく、病院や学校を建て、貧者を救い、弱きものを助ける、穏健な善人活動を行う運動の思想にも当てはまります。むしろ、後者の場合にこそ、よりいっそうの努力が必要であろうと思われます。なぜなら、善人であることは、その人の思想が真理であることを保障するものではないからです。にもかかわらず、善人であるが故に、その思想の虚偽性が疑われることを免れている、というのが人間社会の現実だからです。

「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張は、ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)と呼ばれる人たちの聖書観ですが、実は、他の多くのクリスチャンからも批判されている主張でもあります。よく知られているように、キリスト教はその母胎であるユダヤ教と同じく、神以外のものを神として崇める偶像崇拝を厳しく禁止していますが、聖書を盲目的に絶対化するのは、聖書崇拝である、という批判がファンダメンタリストに向けられるのです。たとえば、神学者の八木誠一氏は、

聖書の記事は絶対確かというものでは全然ないのである。どちらかといえば批判的研究の方がより確かなのである。このように不確かなものの上に救済を立てようというのだろうか。(中略)ところが批判的検討に対して、正統的キリスト教は「それは人間主義であって、神への従順、神からの出発ではない」という。しかしよく問いただしてみると、「神からの出発」とは、何のことはない、ようするに「使徒の言葉への従順」、「使徒の認識からの出発」なのである。これがどうして人間からの出発ではないのか、人間神格化ではないのか(『キリスト教は信じうるか』)
と語っています。同じように、わたしが「聖書の間違い」ホームページにおいて、聖書の完全無謬性の主張を吟味する作業は、決して「キリスト教を否定する」とか「聖書を否定する」試みではありません。「聖書は完全無謬である」という主張の内包している人間神格化に危惧を抱き、その主張の真偽を吟味するものにすぎません。


方法論

「すべてのカラスは黒い」という主張が「真」であることを証明するためには、過去のすべてのカラス、全世界のすべてのカラス、未来のすべてのカラス、それらすべてのカラスの色についての知識が必要です。そうすると、有限な人間には、それが「真」であることを証明することは不可能であることがわかります。ところが、その主張の「真」であることは証明不可能であっても、「偽」であることは証明可能です。たった一匹の黒くないカラスを誰かが見つければよいからです。このように、反証一つで、ある主張が間違っていることが証明できるのは、その主張が全称肯定命題だからです。「聖書の記述はすべて正しい」という主張は、まさにそのような全称肯定命題です。したがって、その主張が「真」であることを証明することは人間には不可能ですが、逆に、それが「偽」であることを証明するには、たった一つの反証例で十分なのです。不完全で有限な人間にも可能な作業です。

聖書は、人間が存在する以前の神話的な物語から、ハルマゲドンのような未来戦争にいたるまで、超歴史的なことが様々書かれており、さらに、「神の御使い」や「天界」など、人間の客観的経験や知識の能力範囲外のことに言及されており、それらの一つ一つの記述がすべて真実であることを知ることは、有限な人間にとっては明らかに不可能です。例えば、歴史書という形式をとっている歴代誌上の「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った」(21章1節)という記述を見てみましょう。サタンという悪魔が存在し、その悪魔が3000年ほど前、イスラエルの王ダビデをそそのかしてイスラエルの人口を数えさせようとした、ということが事実であることを、わたしたちは知る方法を持ちません。

不完全な人間は、すべてのことについてすべてを知るようなことはできません。しかし、いくつかのことについていくつかのことは知ることは出来ます。このような理由により、聖書の記述の中に、それが間違っているという実例があるかどうかを調べることが、「聖書はすべて正しい」という主張の真偽を決定するために、「聖書の間違い」シリーズが取っている方法となっています。つまり、「聖書はすべて正しい」という主張の持っている、全称肯定命題という特質が、その主張の真偽を決定する方法を決定しているといえるでしょう。


何を根拠に間違いを判断するか

ある聖書の記述が間違っていると判断する方法は、基本的には二種類あります。一つは、その記述の内容が、私たちが確信している知識と一致しないために、その記述が間違いであると決定される方法です。もう一つは、聖書に内部矛盾があって、私たちの知識とは無関係に、聖書の間違いの存在が決定される方法です。

第一の方法は、特に科学と宗教の対立に代表される方法ですが、例えば、縄文土器の偏年についての知識を持っていて、縄文土器発展の歴史がきわめて連続的であるという知識を持っている人は、4500年ほど前、つまり縄文中期に、全世界を覆う洪水があって、箱舟に乗って助かったノアの家族以外すべての人類が滅び、現代人は日本人も含めてすべてノアの子孫である、というような聖書の記述は明らかに間違っている、という判断を下すでしょう。しかしながら、何を知識として持っているか、またどのくらいの程度でその知識を確信しているかなどは個人間に差がありますから、どの聖書の記述がどの程度の確実さで間違っているかの判断は、個人間に差が出てくることになります。一人一人がそれぞれ自分のために判断を下さなければなりません。

また、人間の知識は絶対的ではありませんから、確実だと思っていたものが実は誤っていた、ということにもなり得ます。したがって、前提にしていた知識の方が誤っていて、聖書の記述の方が正しかった、という事態も可能です。しかしながら、持っている知識を正しいと判断している間は、その知識と明らかに一致しない記述がある場合、たとえそれが聖書の記述であっても、それは間違いであると判断を下さねばなりません。そうでなければ自己欺瞞に陥ってしまうからです。

そもそも、心から納得して信じてもいないものは、どんなに信じていると自分に思い込ませようとしても無理なのであって、そのような疑似信仰は、すべてをお見通しの神様の前では通用しない、とわたしには思われます。むしろ自分の知的良心に忠実に、確実と思えるものは確実なものとして、あやふやなものはあやふやなものとして、間違いであると思われるものは間違っているものとして、聖書の記述を受け取るべきである、とわたしには思われます。

このようにして、本サイトにおける幾つかの論文は、わたし自身が個人的に正しいと確信している様々な知識と明らかに一致しないと思われるとき、それを理由に「間違っている」と判断したものです。これが、聖書に間違いがあると判断する第一の方法です。

しかしながら、ある聖書の記述に間違いがある、と判断するためには、その記述が書いている事柄についての真実を知っている必要は必ずしもありません。一つの事柄について二つの記述があり、もしそれらが相互に矛盾していれば、その記述のうち少なくとも一つは間違っていることになるからです。

例えば、創世記一章の天地創造物語と第二章の天地創造物語との間に創造順序に関して矛盾があります。つまり、一方の記述ではアダムは植物創造後に造られ、他方の記述ではアダムは植物創造以前に造られています。これらは両立しません。したがって、必ず少なくとも一方の記述は間違っていることになります。そこで、実際の世界創造に関する知識をまったく必要としないで、わたしたちは、創世記の創造物語の記述には間違いがある、と判定を下すことが出来ます。

このようにして、事柄の内容について私たちが真実を知っているかどうかに無関係に、間違いの存在が決定されるのは、論理的真理は言明の形式のみに依存し、言明の内容には依存しないからです。これは、「Aかつ非A」は、Aの内容にかかわらず、常に偽である、という形式論理学の矛盾律です。この矛盾律に従って、聖書に内部矛盾があるとき、その事柄の内容に無関係に、わたしたちは聖書に間違いが存在することを決定することが出来ます。これが、聖書に間違いがあると判断する第二の方法です。

以上のような二つの判断方法をもって、聖書の記述の間違いを断定してゆきます。

ご批判を歓迎いたします。

なお、聖書の引用は基本的に日本聖書協会の新共同訳を使用しています。