1ヶ月ぶりに訪問いたします。大阪の谷口です。私のお送りしたメール(1、2、3、4)に毎回、ご丁寧な返事を頂きありがとうございます。
さて、頂いたご返事について、またお教えくだされば幸いです。(今回、記述がとても多いですがご心配なく。これでほぼネタ切れです。)
1.本能について
「本能」という概念は、岸田に限らず、現代の心理学や社会学では、すでに、死語となっているものです。(わたしは、学生の頃、「社会学」の講義の第一日に、「人間には本能はない」と聞かされ、ショックを受けたことをいまでもよく覚えています。巷では「本能」という言葉がよく使われていたし、それを疑ったことがなかったからです。)要するに、動物の持っている本能に相当する能力を、人間は教育によって身に付けることが明らかになったからでしょう。
なにかそのような講義を受けたような気もしますがよく覚えていませんがやはり少し違う気がします。私の考えでは「本能」とは「生物が、後天的な経験(教育)からではなく、本来的に(誕生時には既に)備わっている能力全般」のことです。(具体的な本能の発動が思春期になるものもあるでしょうが。)
本能には、例えば新生児が、「無呼吸状態から自発呼吸を開始する行動」や、乳児が「乳を与えると吸い付いて飲む」、「ひもじくなると泣く」といったことも含まれます。そしてこれらは自発的に行なわれており、どう考えても教育による結果とは思えません。ただ、このような「生態機能」は生物学の領域であり、心理学や社会学の講義とはなじまないため、はじめから「心理学や社会学の領域での本能」には組み入れられなかったのではないかと思いますので、ここでは、「本能」を私が先に述べた定義のものとして取扱いたいと思います。
逆に言えば、教育がなければ、人間は自己保存能力・種族保存能力をまったくもたない、ということにもなります。この考えには一部賛同します。「自然界のアプローチ」は、「ともかく目的を達成できるならどんなルートであろうとかまわない」ものだと私は考えています。例えば出産について、ともかく生命が誕生できるなら、雌雄交配であろうと排卵誘発剤の使用や人工受精であろうと、また、自然分娩であろうと、帝王切開や集中治療による生命維持であろうと本質的に問題にしないと考えています。なぜそう考えられるかといえば、「可能であるから(実現を阻止するための妨害やトラップ(罠)が仕掛けられていないから)」です。客観的に考えて、人間のような生物を放置しておけば、いずれはここまでくることは間違いないにもかかわらず、知能にもっとリミットを加えるとか、どうしても越えられない障壁を用意していないのは、「夏場に食べ物を放置したが、腐ってもらっては困る」というのと同じぐらいナンセンス(古っ!)だからです。そして、他の生物は反対に、知識による自己保存能力・種族保存能力を持つに至っていないので、本能によって全てをサポートしなければならないのではないかとさえ考えています。
最近、人間の本能が衰えてきているといった声が聞かれますが、例えば生殖本能の衰えによって人口が激減する事態が生じたら人間は実行可能なあらゆる手段を講じてこれに対応しようとするでしょう。「バイアグラ」等も使うでしょうし、「人工受精」も行なうでしょう。(牛や馬の種付け技術はほぼ完成の域に達しており、それを人間に応用することも可能です。) また、「庶民の知恵」といったレベルの数多くの行動も起きるでしょう。つまり、現実的に人間は、本能によって完全にサポートされなくても、教育(知識の獲得)によって、いくぶんかは種族を維持できるようになりつつあると言えます。
人間の行動を、すべて、「遺伝子に書き込まれた情報がそうさせたからである」というふうに、一律に説明しておられるようなところが見受けられるからです。それで人間の行動の説明になるのでしょうか。人間の行動についての説明の責任を、遺伝子学に責任転嫁しただけなのではないでしょうか。これは私の主張の前半部に当たるものと言えます。
例えばコンピュータのメモリ(記憶部)には「ROM」と「RAM」があります。ROMには、工場出荷時に既に最低限必要なソフトやデータが書き込まれており、あとから(基本的には)書き換え不能です。一方RAMは使用状況によって同じコンピュータでさえ書き込まれる情報が刻々変化します。
人間にもこれに相当する部分があり、言わば「本能」はROMに、「教育 (良くも悪くも日々の生活から獲得した情報)」はRAMに含まれるというのが私の考えです。
2.本能と知識(教育)の役割について
私がここで強調したいことが2つあります。
一つは、人間の行動は、まず本能(というか、脳そのものが先天的に持つ機能)によって「行動を起こそう(〜したい)という欲求」が生じ、外部からの後天的な教育の結果による「知識」によって「どのようにそれを行うか」という肉付けがなされるということです。
例えば「呼吸」という行動を見ると、呼吸そのものは本能であり、私たちの「意識」は、「周囲の状況から考えて、今どの程度の呼吸をしてよいか」の判断を任されているに過ぎません。その証拠に、自らの意思の力によって、ただ呼吸を止め続けて窒息死することは非常に困難です。しばらくすると「呼吸中枢」から苦痛による激しい妨害を受けて呼吸を再開せざるを得なくなるか、意識を失なった後、呼吸のコントロールが「呼吸中枢」に戻り再開されます。(呼吸のタイミングが意識に委ねられているのは、心臓の鼓動のように身体内部で完結しているシステムと違い、呼吸は外部との関係が重要で、海に潜ったり、毒ガスを避ける為に、場合によっては呼吸を一旦停止させる必要があるためでしょう。)
人間の行動について、「私たち人間は他の動物のようにただの本能とは違い、明確な意思によって日々決定しながら行動しているのだ。」という主張があるかもしれません。しかしエサを求めて、あるいは敵から逃げようとして、周囲の状況を判断した後、右に行くか左に行くかを決定して行動することは、アリやミジンコでも日々やっていることです。(ことによればウイルスでさえ行なっているかもしれない生物の根本的な本能です。)人間はその上で、知識によって行動の選択肢の幅を広げ、また「理由付け」しやすくなっているのだと考えています。
同じように、「物事を知りたい」とか、「生理的な欲求を満たしたい」、はては「生きたい」といったことも含めて、私たちの行動の全ては本能(のうち、脳が先天的に持つ機能)によって動機付けられていると考えています。(現在では、脳の中でそれぞれの欲求を担当する部分が、おおよそ解明されてきています。)
中には「私は本能の欲求で仕事や勉強をしているのではない。」という人がいるかもしれません。しかし無自覚かも知れませんが仕事や勉強を行うのも本能の欲求の一部です。、「より安定的に生命活動を維持するための手段を講じるよう」とする本能によるものだと思いますし、少なくとも社会に参加したい(例えばグループの一員として皆と同じように活動したい)という欲求を満たすものです。
そして、薬あるいは物理的な手段で脳の「〜したい」という欲求本能の部分だけを破壊したら、自分の周りの状況の変化は把握できても、ただボーっとしてなにも活動したり参加したりすることができなくなり、ましてや、仕事や勉強の継続も不可能になると考えています。
また、「人間は学習することで、益々知識を高めることができる。原始時代の人類からすれば別物といえるほど高度な文明を持っている」という主張があるかもしれません。しかしあくまでそれは人間が獲得可能な能力限界範囲内でのことで、脳の能力開発が10%が20%になることではあっても100%を超えることではありません。
しかしながら、
劫初より造りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つうつに見られるように、(あるいは、最近のゲームのコマーシャルのナレーションでも「なにを残したかが大切なんだ。」といっていますが)、膨大な人間たちが生きては死んでいった証し(蓄積)として、文化や文明があることは否定できません。人類がはじまってからこのかた、ずっと続けて造りいとなんできた殿堂とは、昌子さんの意味するところでは、たぶん、文学というものであろうかと思われる。その殿堂のすぐれた造営のために、わたしもまた黄金の釘ひとつでも貢献したいという。それが昌子さんの願いというものであり、また意気込みであったに違いあるまい。
私は、生物(例えば人類)の時間的、空間的広がりを、カーペット、あるいは畳になぞらえ、1つの人生はその表面に浮かんでは沈む「目」であり、一つ一つは微妙に色や形が違うが、全体としては滑らかな(つまり安定した)「人類」という織物ができあがっているというイメージでとらえています。そして、その一つ一つの目に着けられたわずかな色が組み合わさって、織物のあちこちに「文化または文明」という素晴らしい絵や模様が描かれていると考えています。(それが何のためであるか今のところ自分を納得させられる明確な「考察」はありません。)
3.本能の同一性とブラウザ効果について
2つめは、人間にとって、教育によって獲得する知識は、地域や時間、相性などによって、千差万別であるのに対し、本能的な部分は世界中(肉体的な差などがあるが)ほとんど同じであるという点です。私が注目している「ブラウザ効果」もまさにこの、本能による全世界的な共有インターフェースが存在するからこそ実現していると考えています。
ホームページをIEやネットスケープなどのブラウザを通して見ると、文章や写真、動画や音声が情報として見たり聞いたりすることが出来ます。でもブラウザがなかったり、対応する機能の無いブラウザを使ったりすると見れないし、もし無理に見ようとしても意味の無い文字列や模様、雑音にしかならないでしょう。つまり、ブラウザは、それぞれが同じ機能をもっていることに意味があるということです。これは人間にも言えます。例えば動きを重視したコメディやアクション映画、ラブロマンスやヒーローものは全世界共通のエンターテイメントと言えます。これは、全世界の人々が頭の中に共通したブラウザを持っているからだと言い換えることができると思います。反対に、腹を抱えて笑うようなギャグなのに笑っているのは自分だけで周りの人はクスリとも笑わずけげんな顔をしてこちらを見ていたら。目の前に猫がいるのに周りの人はそんなものはいないと言い、大丈夫かと言われたら。そんなことが続いたなら間違いなくノイローゼかもっと深刻な事態になるでしょう。つまり私たちは無意識のうちに、ブラウザが他人と違っていることを恐れるものなのかもしれません。
ところで、「どんなに精密なロボットを作っても、人間のような生き生きとした笑顔を作り出すことはできない。」という考えがあります。私も割と最近までそんな風に考えていました。しかし、次第に見方が変わってきました。すなわち、「表情は一つの信号にすぎない。笑顔の素晴らしさを感じるからくりは、見る側の脳に仕込まれている」ということです。つまり、筋肉運動によって引き起こされた顔の表情を人間が共通にもっているブラウザ機能によって、笑顔と認識しているのです。それが証拠に、(^_^) という記号の羅列さえ、人間は笑顔とみなしてしまうのです。
たいていの人が、美人をみて一様にドキドキして美しいと感じるのも、その人に絶対的な美があるからでは無く、みんなに同じブラウザ機能があるからなのだと考えているのです。
4.私の考える「神」と「命令」について
わたしが求めていたものは実在の神との出会いです。神については、いくらでも、自分勝手な想像ができます。人はしばしば、自分の都合の良い、神像を心の中に描き出すものです。罪にうちひしがれる者は、「あなたの罪は許された」と言ってくれる神を心に抱いています。病にうちひしがれるものは、病を治してくれる奇跡の神を心に抱いていることでしょう。そして、彼らはしばしば、個人的な感動を、神の存在証明と間違えます。しかし、それらは、すべて、人が心に描く神像であり、実在の神ではありません。谷口さんのいわれる「神」は、人間のもつ神観念がいかにして現れるようになったかを説明する一つの仮説に過ぎず、「実在の神は、実は存在しないのだ」、と主張できるものではありません。信仰者の神が、信仰者にとって都合の良いこころに描かれる神像であるのと同じように、谷口さんの神も、谷口さんが合理的に納得できるように、谷口さんがこころ(脳みそ)に描いたひとつの神像にすぎません。すでに申し上げたとおり、私は神を次の3つのレベルに分類しています。
1つめは、人間の脳みそに生じる神
2つめは、生物全般の神
3つめは、物理法則の神
そして、1つめの神が通常、「救い」や「奇跡」の対象となるものですが、私としては、これは精神安定の必然から生じた仮想世界のものであり、2つめ、3つめの神こそが(とりたてて人間に救いももたらさない)「実在の神」であると考えております。また、「神」などというから「神様」とごっちゃにされると思いますが、私が呼んでいるのは「人間を取り巻く世界を構築した存在(極めて広い意味での「自然」)」を「神」と名づけているだけのことです。(同じ「自然」といっても、2つめと3つめには実際にはとんでもない隔たりがありますが、星座よろしく、人間方面からは仲良く並んで見えます。)
つまり私が「神」について語るのは「自然」について語るのとほぼ同義であり、神に人格があるとか、人間の姿をしているとか、人間の言葉をしゃべるなどとは考えていません。例え意思のようなものがあったにせよ、(自らの製作物の)生物である人間のようなものであるはずはなく、私たちからはそれが「意思」などとはとても見えないものではないかと思います。)
そんな神は一体、何に、どのように命じて、この世界を構築したのかということを考えたことがあります。(※「いきなり矛盾している!」といったご意見があれば最後まで読んでからお願いします。ちなみに「命じて」や「構築した」が人間の脳が感じるところのものとは同じではないなどとはこれからはいちいち言わないことにしますが。)
私がコンピュータに計算するように指示したら、コンピュータは計算してくれなければなりません。いちいち躊躇されたり、拒否されたら困るのです。同じように、神が人間に命令したら、どんな事情があろうが、直ちに実行されねばなりません。「どうしよう」と躊躇されたり、「それだけは。」と拒否されるようであれば、それは神の命令などではなく、あくまで「人間の命令」と見るべきだと思います。
神が「集まれ」といえば直ちに集まり、「分散しろ」といえば直ちにそうされなければならないはずです。しかもその命令は、どの時代、どこの国の人間に対してであろうとも実行され、それどころか、動物であろうが、植物であろうが、さらには石ころでさえ通じる命令でなければなりません。果たしてそんなことがあるでしょうか。
例えば、ものに熱を加えると膨張します。さらに熱を加えると焼けたり、熔けたりし、さらに熱を加えると気化して蒸発します。また、ものに力を加えると変形します。弱いうちは力を抜くと元の形に戻りますが、強く力を加えるとあるときからもう元に戻らなくなり、やがて破壊されます。このような性質は鉄やプラスチックなどだけではなく、あらゆる素材、例えば生物に対しても通用します。
今、1万度の熱を与えられたら、AさんもBさんも、猫も象も、植物も石ころも同じように蒸発するでしょう。「蒸発」とは消えて無くなることではなく、分子同士が完全に分散した状態をいいます。温度が低いと、鉄は鉄の、ガラスはガラスの、水は水の、素材ごとに共通の振る舞いをします。そしてそれは、Aさんたちが躊躇しようが拒否しようが関係無しに起こります。なぜ、全てのものが共通の振る舞いをするのかといえば、全ての物質は分子で、分子は単一の原子でできているからです。(原子について、いささか注釈が必要ですがここではあえてこのように言い切ってしまいます。)
例によってまた珍説を披露するなら、私はこの原子こそ、「神のナノマシン」であり、それら原子マシンに向かって与えられた熱や力といったエネルギーそのものが言語というか命令であると考えています。なぜなら命令を受けたものは、生物、無生物を問わず、それぞれの条件に応じた完璧な「反応(物理現象・化学反応等)」をするからです。
反応が気まぐれであるなら科学そのものが成り立ちません。(電化製品や交通機関もいつ動くか、動かなくなるか分かりません)つまり、「ほんとうのところ」はどうかはおいても、「エネルギーの伝達」を「命令の伝達」、「反応」を「命令に対する応答」と解釈してまったく矛盾は生じません。 そして「宇宙は一貫した時空連続体である」と言われますが、恐らくは地球上のみならず宇宙のどこでもこれらの解釈は成立するものと考えられます。
また宇宙の作成も、生命の作成も、熱や力、光、数々の化学変化など物理現象の組み合わせによって作られていることは間違いないところだと思います。つまり、私は、宇宙を、(ビッグバンだかなにかの方法で)世界を構成する最小単位である原子マシンで満たしておき、それらに命令(エネルギー)を与えることで構築したのだという仮説を立てています。(ちなみに、命令は絶えず与えられつづけねばならず、熱などのエネルギーの伝達が完全に途絶えると、「熱量的死の世界(完全に静止した世界)」になると言われています。)
5.人間はどのように生きるのが「正しい」か
なにかおそろしくおこがましいことを言おうとしていると思われるかもしれませんが、私の現在のところの結論は「自分が正しいと思ったことはそのまま素直に従っても良い」ということです。ある意味では当たり前過ぎますし、またある意味では、佐倉さんがおっしゃったように
現実は、やりたいことをそのままやってしまえば、不幸になるかもしれないと考えたりするので、わたしたちはやりたいことが自由にできないのです。というように、やりたいことあるいは正しいと考えていることがそのまま行動に移すことにはリスクが生じ、また、過去の様様な戦争に利用された「正論」のように恐ろしいことでもあります。
NHKの世界史のテレビなどで時々、古代から中世、現代に至る世界中の国境の移り変わりを数十秒で一気に見せてくれたりしますが、それは正に湿地の菌類の勢力分布あるいは森の木々の勢力分布の時々刻々の移り変わりそのものです。
国境が変わる度、そこでは紛争が起こり、人が死に、悲しんだり、あるいは儲けて喜んだりする人間が発生してきたことでしょう。紛争は仕方が無いと為政者や市民が考えればその結果が反映され、厭戦気分や支配に対する抵抗が強まるとまたその結果が反映されます。「神」の基本的なやり方はいつも同じで、あらかじめ正しい答えを持ちそこに誘導しようなどという気はさらさらありません。
複数の勢力に争わせ勝ち残ったものが「正しい」とするが、ただし勢力争いにゴールは無く、次には年老いた勝者と若い挑戦者を争わせ、ついには世代交代が起こるといったことを、人間界、動物界、植物界等を問わず全く同じ方針で延々行なっているのです。(私はこれを「勢力式決定システム」と名づけています。)しかも勢力同士がぶつかるためには、双方がその気になる必要があり、むしろ、その方向に誘導するシステムは私たちに組み込まれています。(同時に回避するシステムも組み込まれていますが。)
そして勢力が大きくなるためには、自分が正しいと思うことを同じく正しいと考える人間を数多く集めることです。(ここではっきりさせておきたいのは、正しいとは、「理念的に」正しいばかりでなく、むしろ、自分が彼に協力することは「経済的に」正しいとか、組織内の「政治的に」正しいといった「組織内力学的」な意味である場合が多いということです。)
(関係無いことですが、チャップリンの「独裁者」で「1人殺せば殺人者、数万人殺せば英雄」という台詞がありますが、これはそのまま理解しては間違いです。自分の所属するグループ(祖国)の「敵」を数万人殺して英雄になったものでも、自分のグループの人間を(組織的な名目無く)殺害したならやはり殺人者と呼ばれて罪に問われます。この台詞は戦争の理不尽さを強調するためにあえてその部分を省いたものです。)
「本能」および「教育」の結果として、自分がどう行動するのが「正しい」と感じるか、「やってはならない」と感じるかが、ある程度、既に頭の中に出来上がっていますが、それは絶対の強制力を持たされてはおらず、また、時として相反する欲求も同時に組み込まれており、(あまり適切な例ではないが、「貞操」対「不倫」のように)一人の人格の中でさえ「勢力式決定システム」は作動していると考えられます。
つまりどのように争い、悩み苦しんだ結果であろうとも「選ばれたもの」が正しいというのが私の結論です。
最後に、佐倉さんは、「死後の世界」等、自分の認識外のことにはコメントのしようが無いとおっしゃっていました。それは正しい態度だと思いますし、私もある意味では同じです。前述の考えはあくまで私の個人的な思い付きであり、他人に強制するものではない事も同様です。ただ、誰にも正しい答えの出せないもやもやした事柄に、ただ自分のみをある程度納得させうる解答(正解ではない)を出すことで、気持ちがすっきりし、精神的にも安定させる効果があることは確かです。
計測にたずさわる者の命題として、「誤差とは測定値から真値を引いたものである。ただし、真値は(神ならぬ)人間には永遠に得ることのできないものである。」というものがあります。それではどうするのかと言えば、「この長さを1mあるいは、この重さを1kgとする。と誰かが決めて、皆はそれと比較して実用上問題無ければ、それ以上追求しない」ことで成立しています。つまり、「1mの長さ」を初めて決めるときには本当はなんの根拠もなく、(以前あった「地球の周長の何万分の1」なんて業界ジョークを信じてはいけません。)ともかく、それを基準に世界を構築し、矛盾が出たらそのとき修正するのが実用的だということです。
私の「仮説集」もそんな「たたき台」だとご理解ください。それでは失礼いたします。長々と本当に失礼いたしました。
私は、宇宙を、(ビッグバンだかなにかの方法で)世界を構成する最小単位である原子マシンで満たしておき、それらに命令(エネルギー)を与えることで構築したのだという仮説を立てています。物質と生物を含んだこの世界を命令原理のもとに統一的に解釈(あるいは生物学的用語に翻訳)しようとされているのだと思います。人間は自分の自由意志で何かをやっているつもりでも、本当は、遺伝子に組み込まれたプログラムに動かされているだけだ。その遺伝子も結局物理的規則に従っている。あるものがある運動(行動)をするのは、そうするようにした命令が組み込まれているからだ。そして、その命令系列の源を「神」と呼ぶ。
しかし、
「神」について語るのは「自然」について語るのとほぼ同義・・・だとすると、どういうことになるのでしょうか。自然は命令(神)にしたがっている。しかし、その自然こそが命令するもの(神)である。そうすると、自然が命令するのは命令するように命令されているからだ、しかし、そのように自然に対して命令したのは自然そのものだ、というようなよくわからない循環論に陥ってしまいます。
しかし、それを避けるために、それ自体は命令されないが、ただ命令するだけの、いわゆる「第一原因」のようなものを想定すると、それは、アリストテレスやトマス・アクイナスなどが唱えた、古典的な「原因からの神の証明」の蒸し返しに他なりません。しかし、もし、それ自体は原因を持たないで(命令されないで)存在し活動することのできる存在が可能であることを認めてしまうと、自然が原因を持たなければならない(命令を前提にしなければならない)論理的必然性そのものが消えてしまいます。
世界を、命令原理のような、直列的因果関係のモデルで理解しようとすると、必ずこのようなジレンマに陥ってしまうとわたしには思われます。
しかし、物質から人間の行動に至るまで、宇宙すべてを一つの原理で統一的に解釈しようとされる意気込みには圧倒されます。