大阪の谷口です。

真理と論理、および真理の根拠をよんで」へのご返答をいただきましてありがとう ございます。

誤解は、おそらく、事実(真実)を真理と取り違えられたところから生まれたのだ ろうと思います。
なるほどそうですね。 私がこのとき頭に描いたのは、計測ではおなじみの誤差分布というものでした。 例えば、ボールの直径を調べるのに、スケール(ノギス、ものさし)でポイントを変 えながら何度も測ってゆき、値とその値の出現回数(頻度)をグラフに表すと、ポア ソン分布という釣りがね状の分布グラフが描けます。そして、その分布の最も頻度の 高いところに真値があるというものです。 真値を検証する際に注意しなければならないことは、いくら精密に測定しても、ス ケールそのものに誤差が混入していると、分布形状はそのままに、真値はそこからか け離れたところにあることです。つまり、ボールの直径を数千回精密に測った結果、 100.002mmという結果がでても、スケールの目盛りが倍ほど間違っていた場 合、真値は200.004mmかも知れないということです。

佐倉さんの真理に対するアプローチの手法が、出来るだけ厳密に定義を行い、出来る 限り精密かつ正確に(言明等を)検証するというものではないかと、勝手に考えてい ました。そして、ご指摘のように事実そのものが間違いであると言うことではなく、 「主張」の前提となるスケールにゆがみや誤差が含まれていた場合、せっかくの精密 な検証が意味をなさなくなるという危険性を示唆しようなどとおこがましいことを考 えていたわけです。


精神分析学者の岸田秀によれば、人間は本能が壊れた動物である・・・
そういう方がいるのですか。今度調べてみます。 ちなみに私は、人間が本来あるべき姿からどんどんかけ離れつつある存在だとは考え ていません。むしろ、例えばどこまで環境に悪いことをしようとも、所詮はお釈迦さ んの手のひらの上の孫悟空状態ではないかと考えています。

森林で呼吸するときの空気の清清さは、別に空気が人間に清清しさを感じるように調 合されているわけではなく、人間が地球上のガスに晒されたときに最も活発に活動で きるように自ら肉体を適合させた結果だと思います。反対に言えば、例えば空気中に 数%のダイオキシンがあるような場合、毒物反応を示すような生命体は衰退し、(体 内酵素などの働きによって)その空気を清清しいと感じるような生命体はますます活 発に活動し、あたかも最初からこの世界に君臨していたような顔をするということで す。

また、人類は地球上の環境が(人類にとって)劣悪になった場合、そのまま全滅する のではなく、一握りの人々が、幾種類かの利用可能な動植物を連れて他の天体への移 住を試みるだろうと思います。それは機の熟したキノコが胞子を放出する姿、あるい はタンポポの種が次の土地に飛んでゆくように、人類が取るべき姿としてあらかじめ 定められた姿かも知れないと考えています。(もちろん全ての人類、全ての動植物が 移住する事など、現実的にありえない思っています。)

ちなみに私は、人間が本来あるべき姿からどんどんかけ離れつつある存在だとは考えていません。
わたしも谷口さんの自然観にはほぼ全面的に同感ですが、岸田秀が人間は本能が壊れた動物であると言ったのは、「人間が本来あるべき姿からどんどんかけ離れつつある」という意味で言ったのではありません。「本来あるべき姿」などという考えは岸田の考え方にもっともそぐわない概念です。

ところで、「本能」という概念は、岸田に限らず、現代の心理学や社会学では、すでに、死語となっているものです。(わたしは、学生の頃、「社会学」の講義の第一日に、「人間には本能はない」と聞かされ、ショックを受けたことをいまでもよく覚えています。巷では「本能」という言葉がよく使われていたし、それを疑ったことがなかったからです。)要するに、動物の持っている本能に相当する能力を、人間は教育によって身に付けることが明らかになったからでしょう。逆に言えば、教育がなければ、人間は自己保存能力・種族保存能力をまったくもたない、ということにもなります。

なお、岸田秀については、現代日本を代表するきわめてユニークな思想家だとわたしは思っています。一読をお勧めします。わたしの「言の葉」のコーナーでも彼の考え方をいくつか紹介しています。

 「ある苦痛な経験の抑圧と正当化・・・」
 「『真の自己』なるものはどこにも存在しない・・・」
 「何を言いたいのかわからない本・・・」
 「生きるのが下手だと思っている人とは・・・」