大阪の谷口です。またお世話になります。
さて、前回私は神を3つのレベルに分類し、このHPで登場する神(々)が人間の脳みその産物でしかないような事をもうしあげましたが、私はだからといってそれらが意味のない、まさに信じるに値しないものであると言っているわけではありません。(またどちらにせよ、佐倉さんがそのような段階から抜け出しておられることも承知しているつもりです。)
映画「ブレードランナー」の中で、レプリカントというアンドロイドについて、「過去の記憶を与えてあげたほうが彼らの精神は安定するのだ。」といったような話が出てきますが、ともすれば心のバランスを崩してしまいそうな私たち人間にとっても「神を思い描く」というのはその安定のために必要不可欠な行為であり、それゆえに全ての人間が機能として持っているのだと考えています。さらに、先祖の霊がいる事や、死後の世界があるといったことも同様です
「私の思う先祖の霊と死後の世界について」
例えば、私が今、くも膜下出血で脳の言語野をやられると、「彼女は美しい」と言おうとしても、「オー、オー」としか言えないでしょう。感情野をやられるとロボットのように、「彼女は美しい」と発音できても、感情はこもらないでしょう。私たち人間が、考えたり他人とコミュニケーションをとることは、全て脳みその現実的な機構を使って実現しているのであって、血管一本切れて脳のごく一部に酸素が供給されなくなっただけでこの有様なのに、死んで脳細胞が死滅したなら活発にしゃべられるようになり、失われた感情や記憶が復活するのでしょうか。腐って声門が失われた状況で生前の声の周波数の音を発生させる事はかなり困難なことでしょう。
しかし生きている知り合いが生前の私の声を頭の中でリプレイしたり、私の物まねをすることは大して難しいことではありません。彼は「もし(私が)生きていたならこんな時こう言うだろう」という作業さえやってのけるかもしれません。私たち人間はこのように、出会った人(や物事)について、いなくなった後でも、あの人は今ごろこんな風にしているのではないだろうかと思い描いたり、あるいは、出会う前にはこんなことをしていたのではないだろうか。と考えることができるようになっています。私はこれを人間の脳みその「補完機能」と名づけています。そして全ての人間がこの能力を持っているので、前回申し上げたように、「ブラウザ効果」により、世界中のどこの地域でも誰もが心の中に先祖の霊が、「いる」ことにでき、という事はすなわち、自分が先祖になるときには死後の世界があるということが何の不思議もなく受け入れられているわけです。
では、何のためにこんなメカニズムがあるかといえば、グループの安定の為だと私は考えています。自分が死ねば世界は無くなるなら、守るべきは自分のみですが、それではグループは成り立ちません。例えば軍隊などは死ぬ(かも知れない)ことがあらかじめ定められている組織ですが、それが最大の能力を発揮できるとすれば、例え自分が死んでも守るべきもの(祖国や肉親、先祖が愛し守った風土)が自分の外に在ると確信している場合でしょう。また宗教の場合も、自分の肉体は滅ぶかも知れないが、自分のアイデンテティというか魂は神様に預けてあるので、痛みに対する恐怖はあるが、死ぬことに対する恐怖はない。といった事もあるのではないでしょうか。
「真理の探求の考え方について」
それでは、先祖の霊と死後の世界など無いと考えている私のようなものは寂しさの余り発狂したりしないのかとご心配される方がおられるかも知れません。私は根っからの裏方志向であって、観客として舞台を楽しむ能力が欠けていることを自覚しています。そして観客として舞台を見るものの真実と、舞台を構成し観客に見せるものの真実が別物であり、かつ、それが並存するものであることも知っています。
生命の神秘に迫ることや他の天体にゆく事は、人類にとってわくわくするような夢でした。しかし不可能が可能になり、現実にそのための手段が確立されようとする時代になってくると、それは毎日のニュースの中のひとつの記事でしかなく、当事者にとっては、採算が合うか、ビジネスになるかといった方向に進み、夢のベールがはぎ取られ、リアルでつまらない現実が残ります。
しかしながら、私たちには手の届かないと思われていた夢の世界を、誰もが利用可能な現実の世界に置き換えることこそが、真理の探求の最終的な目的だと思います。
夢は夢でそっとしておいて欲しいと私自身の心も囁きます。例えそれが現実だったとしても、そんなことして何の得があるのだという考えが生じるのも当然です。しかし、ある種の人々にとっては、それをそのままにするわけにはいきません。そのある種の人々とは、いわゆる技術者のことです。医者が、人間の身体はこうなっているという個人的な想像を基に手術を行ったり、建築家が(施工実績や材料試験の裏付けなしに)私の予想では、この設計でもつ筈だとビルを建てたらどうなるでしょう。かなりの確率で現実の大きなしっぺ返しを受けることになります。
この「現実世界」からのしっぺ返しの有無が、文書家(なんとくくれば良いのかわかりませんが。)と技術屋の違いとなります。しかし、例えば推理小説などでも、現実を題材にしている以上、現実世界を無視できないという意見があるかもしれませんが、それは、作者や読者の頭の中だけでの現実世界で整合性が取れていればよい話で、現実世界からのしっぺ返しはありません。また、佐倉さんのように、一言書くと、百ほども反論が返る場合のご苦労も同じく、特に読者の頭の中の現実世界での整合性がとれるかどうかの問題です。
私がしっぺ返しを受けるのは、主に物理法則と計測システムのソフトウェアからです。ソフトの格言に「システムは思ったようには動かないかもしれないが、作ったようには動く。」というのがありますが、日々この格言をかみ締めています。
そろそろまたタイムリミットです。佐倉さんが教会でいくら訊ねても得られなかった真理について、私なりの考えを聞いていただくことでヒントにしていただきたいと思いましたが、また尻切れとんぼになりました。ではまた伺います。失礼致します。
佐倉さんが教会でいくら訊ねても得られなかった真理について・・・わたしが求めていたものは実在の神との出会いです。神については、いくらでも、自分勝手な想像ができます。人はしばしば、自分の都合の良い、神像を心の中に描き出すものです。罪にうちひしがれる者は、「あなたの罪は許された」と言ってくれる神を心に抱いています。病にうちひしがれるものは、病を治してくれる奇跡の神を心に抱いていることでしょう。そして、彼らはしばしば、個人的な感動を、神の存在証明と間違えます。しかし、それらは、すべて、人が心に描く神像であり、実在の神ではありません。
谷口さんのいわれる「神」は、人間のもつ神観念がいかにして現れるようになったかを説明する一つの仮説に過ぎず、「実在の神は、実は存在しないのだ」、と主張できるものではありません。信仰者の神が、信仰者にとって都合の良いこころに描かれる神像であるのと同じように、谷口さんの神も、谷口さんが合理的に納得できるように、谷口さんがこころ(脳みそ)に描いたひとつの神像にすぎません。
実在の神は、わたしの造りあげるあらゆる神像を打ち壊して、向こう側から、わたしに、有無を言わさぬ存在感をもって、わたしの前に立現れるものでなければならないはずです。聖書の神(モーセの出会った神、アブラハムの出会った神 )はそのような存在です。
わたしの求道生活の結論は、「そのような神にわたしは結局出会うことはなかった。わたしが出会った神はすべて例外なく人間が描いた神像にすぎなかった」、というものです。
おたより、ありがとうございました。