大阪の谷口です。よろしくお願い致します。
やっと佐倉さんのHPを全体見ることができました。さまざまな方からの意見を拝見す ることができ、楽しく巡回しました。 さて、実は私の奥さんはプロテスタントで、結婚式を行うに当たり教会で教えをいた だき、以前から興味があったので聖書辞典を借りて聖書をはじめて本気で通しで読 み、ついでに賛美歌も前編見ました。
感想としては、わざとそう言う風に作っているのかもしれませんが、イエスさんの (!すいません大阪人なもので権威者はさんずけしてしまいます。)語っていること を弟子の方は意味を取り違えているのではないかと思うことが何度かありました。も し、私がイエスさんなら、このときどんな気持ちでこの言葉を発したのかを考えるの はなかなか興味深い作業でした。
しかし、イエスさんは、聖書も賛美歌も教会も十字架(ロザリオ)も見たことは無い んでしょうね。あの例え話のうまさや、どこのお宅へ行っても足を油でマッサージす るのがお好みなとこと言い、偶像を崇拝せず、定まった宿を持たず流離う姿勢はとて も好きになりました。
日曜ごとの教会の行事には進んで参加しましたが、十字架の木の人形を拝んで欲し かった訳も無く、本当はイエスさんはどうして欲しかったのかを考えさせられまし た。
既にご承知のとおり、私は神や自然観について、独特の考えを持っているのですが、 教会でそんな考えをひけらかす気は毛頭ありませんでしたので、牧師さんを交えた初 心者数人でのディスカッションなどでは聖書の疑問を熱心に訊ねる程度で邪魔になら ないように気をつけていました。
しかし間の悪いことに、牧師さんが元 理系の先生とかで、私の理系ごころをくすぐ るもので、ついマンツーマンのときに議論をはじめてしまいました。
当時からエコロジーブームが始まっており環境の話がでました。 よく自然というと、空気が澄んで、小川がせせらぐ、のどかな田園風景や、あるいは サバンナで野生動物が厳しくも自由な姿を想像したりします。
しかし私の自然観では、
(1)木星の(人間にとって)毒ガスに満ちた大気や太陽の灼熱地獄の気候だって地球と 同じく神様が作った自然の姿ではないかということ。 (2)炭酸ガスや排気ガスの亜硫酸ガスを減らすことが地球にやさしいというが、それは もともとの原始地球の大気であって、植物等が地球に断りなしに酸素ガスだらけにし たに過ぎないのではないかということ。 (3)人間のために何万種の生物が絶滅したというが、太陽が今よりほんの少し明るくな るか暗くなるだけで、それどころではない地球上の大部分の生物がサーッと死に絶え るだろうが、そうなったところで地球が特に悲しみもしないのではないかというこ と。 (4)人間は技術の発達によって、自然からどんどん離れていっているというが、地下数 百m〜数キロmの化石燃料を取り出すことや、それを全世界規模でばら撒くことは、 生物多しといえども人間にしか無し得ないことを考えてみれば、あるいは地球が懐か しい原始の大気を取り戻したいと考えており、その還元者に人間を選び、還元し終 わった後は交尾後の蟷螂のオスよろしく、他の酸素系生物とともにいなくなる予定か もしれない)そう言う意味では自然から離れるどころかお釈迦さんの手の上の孫悟空に過ぎないか もしれない。
さらにわたしは人間とはなにかといった話題に対し、
人間の正体はDNAのようなものではないか。例えば何億という人間の中から、1人だ け抽出し、1万人程度のクローンを作ったところで手付かずの惑星に放したとしたな ら、やがて道具を作り、村を作り、さらに発達して都市ができるだろう。私たちは人 間であるから、人間を主体に考えてしまうが、客観的に考えれば、都市には、発達し た神経にあたる通信網があり、エネルギーを運ぶ流通網があり、意思決定機関があ り、漁村や農村、コンビナートや発電所はエネルギーを取り込む口や消化器官に当た る。まさにこれこそが人間組織という生物の本体であり、個々の人間は、例えるなら キノコの中の1つの菌のようなものではないのだろうか。これらの世界を構築する設 計図が私たちの一人一人の脳みそにあることこそが私たちがDNAのようなものである 証拠ではないだろうか。といったことをつい語ってしまいました。
こんな思いがけない議論を急にふっかけられた牧師さんには気の毒に思いましたが、 地雷を踏んだとあきらめてもらうしかありません。もちろん議論はかみ合わずに終わ りました。
佐倉さんならなんと答えますでしょうか。それではそろそろ失礼致します。
(1)イエスについて
現代聖書学の成果によれば、福音書が書かれたのはイエスの死後40年から80年もあとのことであり、福音書に描かれているイエスは、歴史的イエスの姿や言葉を伝えたものではなく、それらが書かれる以前に伝承されていたイエス語録(「Q」)や、さまざまな口誦伝承をもとにして、各著者が所属していた諸グループの教義を、いまは亡き教祖の口に語らせたものです。したがって、聖書に書いてあるままを、イエスの姿とみることには、注意が必要です。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシヤであると信じるためである。と、ヨハネが告白するように、彼らの動機は、事実を伝えることにではなく、読む人をして、イエスを神の子と信じさせるためでした。それを読んで、読者がイエスに感動をするように、工夫して書かれているのです。(ヨハネ福音書20:31)
(2)自然観
谷口さんの自然観にはほぼ全面的に同感です。
(3)人間はDNAである
信仰者は、すべての問題を、神によって説明して、説明したつもりになっています。
(問)死人が復活したというのはいかにしてであるか。 (答)神にはできないことはない。 (問)イエスは水の上をあるいというが、いかにしてであるか。 (答)神にはできないことはない。 (問)無からどのようにして、世界を創造したのか (答)神にはできないことはない。谷口さんの人間論にもそれに似た危険を感じます。人間の行動を、すべて、「遺伝子に書き込まれた情報がそうさせたからである」というふうに、一律に説明しておられるようなところが見受けられるからです。それで人間の行動の説明になるのでしょうか。人間の行動についての説明の責任を、遺伝子学に責任転嫁しただけなのではないでしょうか。