はじめてお便り致します。大阪の谷口と申します。ひょんなことからこのHPを拝見しまして、すぐに、これは一度お話せねば、とキーボードを打ち始めた次第です。
私は現場計測という、主に工事影響による地盤や建設物の挙動を測ることに従事しているもので、職業柄、物理現象とはなにか、それを人間が知覚する事とはいったいなんであるかといったことに常々興味を持つものです。
さて、これほど広範囲に精力的に執筆活動をなされている佐倉さんですから、けっこうお疲れのことと思いますので、なるべく話題の範囲を絞って具体的にお話すべきだと思い、この真理〜をベースに「計測」というものに携わっている私の考えを少し聞いていただきたいと思います。
言明だけが真理であったり誤謬であったりすることができるからです。事実は、誤謬であることができないので、真誤の吟味判断の対象にならないのです。(佐倉)私が”「ただのひと」さんの批判とわたしの応答”の中で特に重要だと思ったのはこの部分です。
計測というのは、荷重計や変位計、温度計といったいわゆるセンサーを用いて、重さは何トンだったか、何mm移動したか、温度は何℃上昇したか、といった情報を得るわけですが、実際には直接、重さや変位を測ることはできません。例えば重さを測るのには、重さを加えると荷重計の受感部の裏側に張られた、ひずみゲージというシート状のニクロム線のようなものが変形して抵抗が増大して電流が流れにくくなる性質を利用してメータで電流を測定します。あらかじめ較正してあって、何トン加わると電流がいくらになるかという関係を明らかにしてあるので、重さがわかるというわけです。
つまりこれは、重さを電流に変換する器械というわけです。
Aというものを変換してBというものにするときには必ず、なにがしかが捨てられ何がしかが加えられることになります。なにも捨てたり加えたりしないならばそれはすなわちAそのものであり、変換という行為がなされていないことになります。
それではなぜ、変換する必要があるのかといえば、変換しないと人間の知覚が現象を受け入れることができないからです。どんなにビルの柱をにらんでも、人間はその柱に何トンの重さが掛かっているのかを知ることはできません。変換して、針の振れや数値化、グラフ化などをしてはじめて利用できるのです。
ここで語られた「真理」についても同じ事が言えると思います。真理という、直接見たり触ったりできないものを「言明」に変換することで、私たちに取り扱えるようになる一方、それはあくまで真理の一面であって全てではなくなるといった結果が生じるのだと解釈しています。
人間の脳みそは真理の全てを知りたいと欲しますが、そもそも人間の知覚にはその機能も容量も用意されていないわけですから、全くの無いものねだりといったところです。
私はいつも今のようなせりふを次のように整理しています。
(1)人間には真理の全てを知る機能も容量も用意されていない (2)しかし真理の全てを知りたいと欲する機能(能力)は用意されていると。
せっかちなもので、同様に、この場で私が本当にいいたいことをいきなり述べてしまいますと、
(1)神が本当にいるとは限らない (2)しかし、人間には神が存在すると考える機能(能力)は用意されているというわけです。
ある人が神の存在を信じていたとして、その人とコミュニケーションできる人々全てに、(現在信じているかどうかは別問題として。)同様に神の存在を信じられる機能を与えたとしたらどんな現象が起きるでしょうか。賛否両論巻き起こるでしょうが、その話題の核としての神の存在は益々大きくなり現実味を帯びるでしょう。
私はこれを人間の脳みそが持つ、「ブラウザ効果」と呼んでいます。ブラウザとは言わずと知れたこのブラウザのことです。このブラウザ、(さらにはパソコン)がなければ、この文章は文字化けして意味をなさないか、電気信号のままで誰にも読めないでしょう。皆が同じブラウザを有することで同じ画像、同じ情報を共有でき、現実には存在しないものまでここでは皆が共有でき、「在る」ことになるわけです。(計測が現実の断片を変換し、抽象化した情報にする作業だとすれば、ブラウザの役割はその逆変換と見れなくもありません。)
そうは言っても、そもそも神が存在するからこそ、神について考えられるのではないのかといった考えが私にも生じましたが、数10年間の経過をはしょって結論だけ申し上げるなら、次のように私自身は納得しています。
(1)私たち人間はサル系の生物であり、ボス猿を中心として群れとして暮らすように、本能という名のプログラミングで旧皮質に書き込まれている。(人間界ではやがてそれは王と呼ばれた。)いささか乱暴にいえばこのようなことを考えています。(2)一方、人間としての進化の中で論理や抽象、空想等を司る新皮質が増大してきた。
(3)旧皮質のボス猿本能と、新皮質での抽象的に考えられる能力が結びついたとき何が起きたかといえば、「絶対的」で「完全無欠」で「永遠」の、(うんこさえしない)究極の王が人々の脳みそに誕生することができるようになった。(やがてそれを表す別な単語が発明され、さまざまな逸話が創作された。)
(4)その背景には、現実の王によって、王国の民が苦しめたり、裏切られたり、また倫理的にも淫行や放蕩にふけるなどの事実が知れたりして現実の王への失望が理想の王への渇望に繋がった。(※この現実の王とは、現在の政府や軍隊から、教師、上司も含めた、ともかく人を支配する側の人々全ての代名詞のつもりです。)
また、ボス猿本能もなにか特別な人々にだけ与えられているものではなく、人間の脳みそには元々「ボス猿化本能」と「子分猿化本能」の両方が埋め込まれており、グループの構成や環境、タイミングによって、従うものと従わせるものが形作られたと考えています。
今でも次々と新興宗教の類が生じるのは、生まれついてのカリスマがいたからではなく、何の気なしに語ったその人の言葉を本気で信じたがり、その気にさせてしまう多くの人々が存在したからではないかと推察します。
それでは、私は神について全く信じていないのかといえばそうでもありません。上の記述の中で、本能をプログラミングされただの、埋め込まれただの書いてきましたが、もちろん、人間の姿をした神を信じているわけではありません。(私たちが犬だったら犬の姿、猫だったら猫の姿をしていたことでしょう。)
私はある時から、神を便宜上、3つのレベルに分類する事にしました。
1つめは、今まで語ってきた人間の脳みそに生じる神。 2つめは、生物全般の神。 3つめは物理法則の神です。なぜ生物の神と物理法則の神を分けたかといえば、一言で言って、物理法則の神は生物の神につれないというか、常にきびしく、生物の神はあらゆる難問を物理法則の神の厳格な法の中で解決することが義務づけられていて、とても対等な立場ではなく、全くの子分というか下請け扱いだからです。
私が最初にそれを感じたのは小学生のころ人体解剖図鑑を見て、人間の静脈のあちこちに血が逆流しないための弁がついているのを見たときです。私にはそのとき、人間の体が神の作品というには、あまりにも不細工なやっつけ仕事のように感じられ、神が全能というなら魔法で、「血よ一方方向に流れろ。」と念じればいいじゃないかと本気で憤慨したものです。
そのことがなぜか忘れられず、その後もときおり思い出したりしたのですが、社会にでてエンジニアとして働くようになって、あれは静脈の還流を回収するには良い設計だと思うようになり、あの仕掛けの考え方は、全能者のものや魔法使いのものではなく、苦しい制約条件の中で最大の効率を目指すエンジニアのものだと感じたからです。
すみませんが、これ以上書き込んでいると夜が明けてしまうもので、徹夜仕事の合間の息抜きがこんなとんでもない事になりましてもうこの辺にしたいと存じますが、結局のところ、佐倉さんにお尋ねしたいのはこんな考え方に矛盾というか、ここがおかしいといったことを指摘していただけたら幸いです。
それでは失礼致します。
わたしの感想です。
(1)真理と言葉について
真理という、直接見たり触ったりできないものを「言明」に変換することで、私たちに取り扱えるようになる一方、それはあくまで真理の一面であって全てではなくなるといった結果が生じるのだと解釈しています・・・真理というものが言葉とは別の所に独立に存在していて、それを言葉で表現したとたん、その言葉で表現された真理は不完全なものとなってしまう、という説は、広く信じられている誤解だと思います。それは、すでに「「ただのひと」さんの批判とわたしの応答」でも指摘した通りです。
「物体」や「重さ(引力)」など、自然や事実は真理でも誤謬でもありません。わたしたちは、「<この物体の重さ>は正しい」「いや、<この物体の重さ>は間違っている」などという言い争いはしません。わたしたちが、「正しい(真)」とか「間違っている(誤)」とかと言って争うのは、「<この物体はあの物体より重い>という主張は正しい」とか「いや、<この物体はあの物体より重い>という主張は間違っている」というように、主張文に関してのみです。つまり、正しい(あるいは間違っている)ところの当のものは、自然や事実ではなく、人間の主張文です。人間の主張(言明)だけが正しかったり、間違ったりするからです。自然や事実はなんの主張もしません。主張のないところに真も誤もありません。そして、言葉を語るものだけが主張をします。
このことを言い換えれば、「真理」とか「誤謬」とかというものは、わたしたちが主張(言明)に与える評価である、と言っていいでしょう。商品を離れて「値段」だけが独立して存在することができないように、主張(言明)を離れて「真誤」は存在することはできません。
誤解は、おそらく、事実(真実)を真理と取り違えられたところから生まれたのだろうと思います。谷口さんのご意見は、「真理」を「事実(真実)」に置き換えれば納得できるものだと思います。
(2)本能について
人間の脳みそには元々「ボス猿化本能」と「子分猿化本能」の両方が埋め込まれており・・・精神分析学者の岸田秀によれば、人間は本能が壊れた動物であるといいます。人間の社会的な行動は、本能が壊れて機能しないので、本能にかわる、社会の共同幻想(文化)を必要とするようになった、といいます。わたしも、だいたいその意見に賛成です。
本能とは、本来なら、現実への適応を保証するものである。動物は本能にしたがって行動し、それがそのまま個体保存、種族保存の目的につながっている。ところが、人間においては、本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり、現実への適応を保証するものとしての本能はこわれてしまった。・・・本能にもとづく男と女の関係、親と子の関係、家族の関係、集団の関係はもはや失われてしまった。だが、これらの関係を何とかして維持しなければ、人類は滅びるのであった。ここに文化が発生した。文化は、矛盾する二つの要請を同時に満たすものでなければならない。一つは、曲がりなりにも現実の個体保存または種族保存を保証する形式を提供するものでなければならない。もう一つは、できるかぎり各人の私的幻想を吸収し、共同化し、それに満足を与えるものでなければならない。文化は、前者の意味において、本来の現実の代用品、つまり作為された社会的現実、疑似現実であり、後者の意味において共同幻想である。(岸田秀、『ものぐさ精神分析』43〜47頁)岸田は、この考えを駆使して、革命、発狂、犯罪、芸術、新興宗教、国家、趣味、などを解明していきます。たとえば、新興宗教はおのれの私的幻想を国家の共同幻想に共同化できなかった人びとが別の幻想をつくって出来上がったサブ集団(いわば、国家の中の小国家)である、といいます。
岸田はこの書の中で、人間の社会的行動が本能に帰すことはできないことを説明していますが、わたしも、いろいろな意味で、人間の社会的行動を本能や遺伝子に帰すことには賛成できません。ひとつは、十分な証拠がないこと、もう一つは、人間の自由を否定すること、もうひとつは、親のしつけや学校の教育などを通しておこなわれる支配者のイデオロギー(共同幻想の一側面)の役目を、軽視しかねないからです。
(3)するどい洞察
私が最初にそれを感じたのは小学生のころ人体解剖図鑑を見て、人間の静脈のあちこちに血が逆流しないための弁がついているのを見たときです。私にはそのとき、人間の体が神の作品というには、あまりにも不細工なやっつけ仕事のように感じられ、神が全能というなら魔法で、「血よ一方方向に流れろ。」と念じればいいじゃないかと本気で憤慨したものです。これは、どちらも、たいへんするどい洞察だと、とても感心しました。ご存知かもしれませんが、伝統的な神の存在証明のひとつに「設計からの証明」というのがありますが、それは、世界は優れた設計を示しているので、設計者がいなければならない、という説です。一つ目の洞察は、「設計からの証明」が実は自分に都合の良い部分だけを見ていることを指摘しています。第二の洞察は、世界が完全なる設計によって作り上げられた完全なる作品ではなく、そこにあるものが、そこにある条件を使って、試行錯誤の末、いろいろな進化をしてきたことを示唆しています。エンジニアという実践的立場から見たとてもすぐれた洞察だと思います。とても勉強になりました。そのことがなぜか忘れられず、その後もときおり思い出したりしたのですが、社会にでてエンジニアとして働くようになって、あれは静脈の還流を回収するには良い設計だと思うようになり、あの仕掛けの考え方は、全能者のものや魔法使いのものではなく、苦しい制約条件の中で最大の効率を目指すエンジニアのものだと感じたからです。