「イジメ自殺」に関する、佐倉サンと、作田サンの見解の相違…かつて、その対象となりかけた身の上として、とても興味を覚えました。オカメ8モク…横山サンとの応答…とても勉強になりました。
親の都合で、幾度となく転居し、転校を経験しました。とても利発、だけど気まぐれ、気が乗るとクラスで2番目の子より20点も良い点数をゲット…と、トタンにイジメの数々が始まりました。活気は失せて、学校嫌い、勉強嫌いは、身を守るための演出であった、と同時に、文化、時代に対する…あるいは、ヒト自体に対する懐疑心を拡げ、深め、強めました。当然のコトのよう、私の成績は、以降、ずっと平均に留まりました。オカゲで、予習・復習に費やする時間は、児童文学から、ロマン主義、ドストエフスキーに至るまでの「文学」と、空想、思索に割かれたのです。
上手に生きるコトは出来なかった。けれど、悔いてはおりません。人間を学べたし、金を儲けるヒマが無かったけれど、それなりに充実しています。世間の評価なんて、失う何も無いとしたら、どうってコトは無い…
確かに…根は深いですね…成人の犯罪が根絶できないのに、PTAとか、マスコミ側が「教育の場は聖なる所」と言わんばかりに、大騒ぎしているのは不思議に思えます。
声高々に「大義名分」を振りかざしている人々が、腐敗した世の中の悪しき側とは無縁とか、改善のタメに働きかけているとかでなく、多少なりとも、こんな世の中を拵えるのに貢献したのでは?との自問さえ致さない…その都合の良さ、佐倉サンの『しらけ』が聞こえそうです。
最終的に、一線を越えるか否か、それは本人に任せられます…けれども、だから全て自己責任で!と言われても、西洋合理主義的な、その考え方が、たとえグローバルであっても、高山植物が都会で育たないのと似て、根付きがたい考え方であるのも、また事実に思えます。幾つもの条件を次々と充たせるなら別ですが、そういう困難な道に進むより、必要なエネルギーの少ない方向に進むのが道理では?
より非道い親が「セーフ」だったりしますので、親の責任が全てとは思いませんが、その逆も受け容れがたいのです。親から、有無も言わさず、ポカポカ殴られて育ったりすれば、力ずく意思を強いる…これが、親に屈服した時点で、子の学んだ「ルール」となるのでしょう?だったら、社会的・客観的に受け容れられない処世理念ですから、とんでもないハンデを背負い、世に出るコトになります。横山サンは、その点を訝ったのだと思います。
幼児の『全能感』は、まだ現時点(遠い将来には、それが全・肯定されるかも…我儘な、そういう人々に因る秩序も、それなりに可能と考えられますので=漫画チックに描けば、100億のブッダの住む星…その対極に在るのが現在の地球)では、あるタイミングで断ち切るべきなのでしょうが、タイミングを誤ると、『トラウマ』として人生の大半を浪費させかねません…その子が「手応えのあるパズルを貰ったのだ」と達観できるならイザ知らず、第三者に迷惑が及んだりするのですから、デリケートに扱うべきです。が、4・6時中、神経をすり減らすようでは、コスト(時間)パフォーマンス的に無理ですし、育児ノイローゼとやらで新たな事件が起こったり…まァ、流行の「EQ」なんかも何かのタシにはなりそうです。すなわち、懐かしい全能感を土壌に、企図・達成、充足感という花を咲かせるのです。ケッコウ賢い考え方。
だって、そうじゃないですか…泣けば、悉く叶っていたのが、泣けど暮らせど、願望は成就しない…しないばかりか叱られる…無口を強いられる…どうすれば叶うかの示唆も無い…としたら、それは悲惨な体験です。導いてあげるタメに、親も努力が必要…こういう欧米式は、取り入れるべきでしょう。
横山サンの、既成の世の中に「新たな人間を送り出す」親タチも、こんな激変する時代に、その気が有っても右往左往というのが実情ではないでしょうか?(まるでコーモリ意見ですね)
この国の文化自体が中途半端なんですね…個人主義的に見えて似て非なる利己主義…群落主義へのノスタルジーも甦りそうにない。
欧米で、そうであるような自己責任を求めるには、あまりにも人格の幼い犯罪者と、その予備軍タチ…村八分に処したって、ニッポン全国で暮らせるのですから効果は無いし。
私に言えるコトが有るとしたら、トラブル・メーカー達が秩序を乱して、他者を傷つけ、損害を与えた場合、処罰する…この処罰の『意味』が転化しかけているのでは?という観察。指導の要素が、懲罰のそれと比重が逆転しかけている。
リサイクル法と似ているのですが、罰するのではなく、再生する…少し誤ると、どこぞの国の「矯正」になりそうですが…切り捨てるのではなく、資源の有効利用…人材も例外ではない…と、こういう方向に展開するだろうと考えています。
そのように考えるなら、「親の犯罪責任」ではなく、「カウンセリング」を受け、掛け違えたボタンを掛け直せる…と、淡い期待。
「親の思うような人格に育て上げる」コトなんか、第一子が多少なりとも人格的に歪んでいるコトを指摘するまでもなく、望むべきではありませんし、落胆するのが関の山。愛してやる…父母が信頼し、互いを愛し合っているのを見せ、普段の生き様からして、他人の中傷はしない、嘘、小言は言わない、不正は働かない(そこいらの寺の経営者にも言えるコト)…子に関与するのは、何がしたいのか聞き出して、その応援に努める…それで充分であり、そのタメに親は、その怠慢を悔い改める…それしか無い。ウットウシイと考えるか、そのピンチをチャンスに(ちなみに、私のシグネの一部はPinchance)繋ぐか…それは親次第で、育ち直すか、否か…それで、不安とオサラバ出来るというメリットが常識となれば、定着するかも。
親は己の至りついた地点を、子の出発点と致せる…進化とやらは、その集積であったと考えられる。偶々、退化とか停滞が在ったにせよ、それは不可避の条件が有ってのコトであり、可能であるのに実現に致さない…これが、愛の欠如と考えます。
人間の愛…ネッパツで苦しんでいるとき、傍に居て、見守ってくれたヒトに感じた感情、台風・地震で家が揺らいで、その異変に恐れているとき、傍に居てくれるだけで安心させてくれたヒトに覚えた感情、わが一族の富が乗っ取り屋に奪われたとき、貧しくなったのに受け容れてくれた異性に抱いた感情。
と…親・子の絆って、存在しますよ…人間はだれでも、やがて、自分に命令をする者たちに対して、「どうして?」と問い返すようになる。としても、信頼しあった人間関係は、ケッコウ影響し合えるし、親子で、それが可能なら素晴らしい…と、思われませんか?要は、成長を自ら止めてしまう大人が多いコト、そういう社会の仕組み…これも変化しますよ、構造改革の煽り。充分に人格者なのに、それでも自己啓発に努める親…黙っていたって、子は育つ。繰り返しますが…そうでない親には、カウンセリングというサービスが必要。
他者の『意思』に排他的となるのは当然です。健康な証拠です。そうでなくっちゃ、弁証法も発展も無かったでしょう。無条件に受け容れているのは三歳前後までと私も思います。けれども、レア・ケースかも知れませんが…老年に及んで、悔い改めたりする人も居ます。
読み込むと、佐倉サンの考えられ、消極的に捉えていらっしゃる「躾」は、儒教的なそれを指しているようですが、上述の如き生き様の親が生きた手本であるような、子との関係は受け容れられますか?
それが、ケッコウ快適な21世紀型のモデル・ライフになる可能性が有ると、お考えになりますか?
なるほど、「少年犯罪は親の責任である」という考え方って危険です。ある意味、恐怖政治的だからです。けれど、親の無反省ってのも、完全犯罪を遂げた人物同様、不幸だと思うのです。アイツは、ヒトを殺しておきながら、捕まらなかった…幸せな奴だ、とか…裁判で勝訴して、金持ちは得する…なんてのは誤解と思います。犯罪者は、犯行がエスカレートするうちに、証拠を、まるで意図的と思えるくらい大胆に遺したりするそうです。この性善・性悪の葛藤…佐倉サンなら、分析できていると思うのですが、お示し戴けないでしょうか?
社会からの禁則の「メッセージ」は、頭で判っていても、情動の激しい波濤の前では非力ですよ…それをコントロール出来ないのは当該の中学生の内に始まった犯罪者の資質なのでしょうか?親が荒れ狂う姿を見せるコトで身に就くのだと私は考えます。あるいは、自ら律するコトの出来ない未熟な態度だったり…
少なくとも確率は高まる…そして状況が揃えば、もっと犯罪を仕出かしやすくなる。その親が金銭的に豊かなら、パンを盗みはしないでしょうが、何らかの短絡を仕出かす。
もう一度、反復します…親は、生き様の手本であるべきです。それは、我が子にではなく、他人の子に採用されるかも知れないし、我が子が、他人の親から影響を受ける可能性も在りますが、それで良い。しかも、コンペとか、不倫とか、飲み会・パーティーなんかよか、ずっと楽しいコトと思われます。しかも…それを怠ったら、子は迷います。拠り所を求めます。同類が集います。手っ取り早いルールが出来上がります。あるいは無批判で受け容れます。器が空っぽだからです。あるいは、互いに打ち消しあってるガラクタが詰まっていたからです。
時代が判っていないのだ、親に判らなくて当然…こんな感じなのでしょうか…何れにしろ、家庭を蔑ろにしたツケの大きさ、我々は思い知らされているのです、これ以下が有るとも思えません…しかも、文部省には高・知能が集まっているのです、ボトム・アップを重視しさえすれば、それなりに改善される…ガツンと反論されそうですね。
親は子どもに衣食住を与える。それ以外のことを、親がやろうとするのはつつしむべきだと思います。あとは、すべて個人の自由であり、個人の責任です。との御説…実は、ボディーランゲージを含め、望もうが、望むまいが…生きた入門書…子は多くのコトを為されていますし、見えているのは霊的存在ではないのですから、それは無くせません。だったら、少なくとも悪い見本は慎むべきです。違いますか?それどころか、可能な限り、善い見本で在るべきです。(善悪の基準には触れませんが)
教師は「読み・書き・算盤」その他の知識・技術を教授する。と、社会はそれぞれの時代の要請に見合った最低限の規則を作り実行し、犯罪者は罰する。という3本立ての御説、シンプルで、ローカル的には、指導理念として成り立つでしょうが、そこに属するには、資格が求められる…それこそが、佐倉サンに向け、次々と、まるでウンカの如く生じる「反論」の源では?
理屈だけでは、この世は治まらない…霊長類のトップでありながら、生き物でもある、しかも野生なりの知恵もない…そういう側面が、ケッコウ大きい。親・子が居たら、それ等は、かなり不可分の分身…例えば、親が、似て欲しくないと感じはじめている生き様を、ついつい未然形で引きずっているからこそ、子は、ティース・トレーニングを怠り、80/20の理想を遂げられない…キッチンを管理できないから、ネズミが出没、何とかホイホイで捕獲し、ゴミ袋にポイ…それで、「歯を磨きなさい」とか、「命を、生き物を大切に」とか言い聞かせて、どうなりますか?こういうコトも含めての、親が「やるべき」コト、こどもの教育に関して(1)の、親は子どもに衣食住を与える…なら、納得しますが。
(4)親や教師や政府は、各々(1〜3)の価値を自らの言動で示し、それに反した言動は慎む…という項目、お忘れなのでは?
それとも、そのように演じるだけで、子供なんざ、誤魔化せるのだ…と、お考えなのですか?貴方のサイトが、あまりにも真摯なので、こんなコトを申し上げているのです。
実は、最近、性悪説に少し傾いています。小利口さが災いしているような… 愛を無制限に要求してしまうことが、人々を追いつめる。との御説…飢愛は、社会システムの不完全(あるいは未完成)を反映している…と考えるコトも可能です。だから、親の口からは、不平不満の途絶えるコトが無い。買ったばかりの自転車に近づく他人が居れば、自転車泥棒ではないか?と疑ってしまう…理想を語っても、それは遠い、ずっと遠い先の、絵空事でないにしても、我々の時代では実現しないコトと思われますので、これまでと致しますが、自立できるのにオンブの必要は有りません。活動範囲が広がれば、自転車を与える…が、バイクは駄目…この辺りで摩擦が始まります。
前述のネズミ対策と同様…日々の、みっともない親の幼さ…その成果でありそうなのに、そのゆえに我が子が信じられない…としたら、同罪?に思います。 彼は、与えた玩具を大切に扱ったか…それを誰かに与えると親が決めると、自ら壊したりしなかったか…また、それは親との同一化で得た生き様ではないか…「道具は大切にしなさい」、「じゃあ、パパは?」で、親子会話が終わる。そう言えば、夫婦喧嘩して、茶碗を投げたっけ…とか、ボロが一杯。
せめて…子が不祥事を仕出かしたときくらい、ふり返ってみる機会が必要です。そういうチャンスが与えられていない?作ろうとしないだけです。
少々、気になったのは、罰というのが、天罰カテゴリーではなく、司法の裁きを指していらっしゃるような…だとしたら、「アートマン肯定説」じゃないですが、仏教に親しんでいらっしゃる方らしくないような、俗世の(冤罪判決さえ仕出かす…その場合、絶対者からの越権の誹りを免れない、法精神の具現という、アートマン的な)裁く側に立っておられるような…ブッディスト?とエッセイストとの2足のワラジ的な…「Wスタンダード」とは申しませんが…セッカクの素晴らしいサイトに、らしからぬ印象を受けています。(私の読み方が浅くて、実は、方便の一つなのかも)裁く…から、導く…世の中、そういう方向に変わりかけているように私は感じていますが。
そして、何より…罰したつもりが、塀の中で、「衣食住を保証してくれて、ここは極楽、勧善懲悪なんざ、屁のカッパ」なんてのが居たら、どうなるのでしょうか?そこに居る意味には、幾つかの理由が有って、その一つ、懲らしめるコトは絶対的な手法なのでしょうか?マスコミに対する佐倉サンの憤り…わが身に返ってきませんか?冷静と思われる貴方なのに、何となく、犯罪者に対する憎悪の激しさに怯みそうです…私も憎みますが、立ち直れたら…なんてコトも少し期待したい。甘チャンなのかも。
それは、あたかも…相対性原理に対する万有引力説、統一場理論に対する相対性原理のような、分析から総合に到ろうとする方法論の如く生じた誤差の成れの果てなのでしょうか?そろそろ再・体制化が必要だったりして?
私も、シミュったりして…ネアンデルタール人が生きるべきではなかったのか…前頭葉の発達が少し遅れているにしろ、今頃、和気藹々な世の中を築いていたのでは…なんて。
子供は天使ではないのか…然り…かつ、否…親が愛さなければ、その子は誰も愛せない…精々が好き、嫌い…致し方なく、騙されやすく、依存できる相手に対して、親と同じく、『意思』を強いて、自由を奪う…どこかのタイミングで、このカルマを断ち切るしかないのに、そうしようと考えるコト自体が、何と…その人に『ストレス』となるのです。不安に陥れるのです…
だからこそ、信仰が必要なのだろう。聖書も、仏典、コーランも、そのタメのテキストで、罪深い人にこそ、それは考え出されたカリキュラムで、モデルとして、キリスト、仏陀、マホメット…彼等の、おそらく最高度の滅私の姿が提示され、逆ネジを巻くが如く、自己点検、自己啓発が為される。天使から悪魔に…それは不可逆ではない、と考えたいだけなのかも。けれど、死刑囚の「手記」などに、俗人より浄化された魂が覗けたりで、まんざら絵空事でもないような。要は、全て託すコトであり、多少の誤謬は許容すべきなのだろうと思います。その「教義」の優劣ではなく、その信者の、この世界に対する貢献…これが評価基準。
滅私奉公も悪くないが、それが義務(器が出来ると、それを悪用する奴が現れうる…花瓶が凶器に…ドラマでお馴染み)とされたり、奉公先が攻撃とか、権力欲、たんなる野心、そういう低次元の本能だったりするから、トップ・ダウンは御免被りたいですね。ボトム・アップ的な…ボランティアの延長線上に、日々の暮らしを豊かに充実させるタメの示唆が込められているかも。
例えば、佐倉サンは、知識を公開されていらっしゃる…とか。そういう、各々の天来(あるいは生来)の特質で貢献できれば、何も、特攻隊みたく、犬死ぬコトは無いのです…彼等の心境、想像するだけで涙腺が刺激されます。
作田サンの仰る「自殺と言う手段は否定しません」には、異論を挟まないではいられません。私は、もし不治の病なり、絶望に耐えられなくなったら、自ら殺すよか、生きるのを自ら止めます。つまり、餓死を唯一の手段に…と願望しています。死ぬために食らうなんて、滑稽。そんなコト、受け容れるだけで人格崩壊しそうです。
第一、世の中に迷惑です…それを否定するがタメ、世の中ではなく、自らの消滅を選んだとしても…彼等・自殺願望者に否定しきれないであろう貧困国の、生きたい、遊びたい、学びたいのに、ささやかな、そんな夢も叶わない幼い子供たちの、口に入るべき食料を奪うコトだからです。(この国を含めて、先進国自体がそうかも知れませんが)
イジメ自殺…そんなに異常な事件ではない…と、佐倉サンは、誰憚るコトなく仰いました。もちろん、対症・予防が大切であると、フォローはなさっていますが…ニヒルで、ゾッとする気も致します。と、同時に…仰るコト、理解できます。
蛇足として、こんな狂信的な解釈は如何でしょうか…すなわち、絶対者が居るとして、その意思が、愚かな生き物たちに悟らせるタメ、一つ(一つ、です)の決意を為される…「そんな世の中、生き様は間違っている…それを続けるなら、大切な子供たち…すなわちヒトの未来は失われるのだよ」と。
もちろん…そんな意図、マスコミ側に兆しているコトはないでしょうけど。このように、精神世界的には、より大概念に包み摂るってコトも可能に思われるのですけど。
量的に増えている現象は、報道に値します…けれど、マスコミは、その本質を捉えようとしないで、一方で生産効率…コンテンツ制作のマニュアル化、他方で視聴率とか、発行部数を増やすネタ程度に扱って、演出・脚色を加えたり…そう思われても仕方ない姿勢が伺えます。微分的に、増加しているという事実は、システム自体、変化に対応できなくなっているのを暗示していると思う。これは、産業革命以来の構造改革のニーズ・ウォンツと符合していそうです。文字通り、産業界は「お客様は神様です」を実現するしか道は無いようです。精神文化の面でも然り…けれど、悪しき側からも参入…と言うよりか、現状、そっち側にシフトしてるみたく、性ホルモンを反映していかの如き阿呆・馬鹿サイトに、ン十万アタック/日…量的増大に特化、質的転化する可能性が小さくなってしまった大 型爬虫類は滅んで、原始哺乳類は生きながらえた…と、ちと似ていませんか?
また…視野が狭まってしまうと、普段は聡明な人物だって、ほんの数日も経てば事実を受け容れられたのに…というような場合が全てなのに、飛び降りたり、ブラ下がったり、服毒したりするのですから、報道、身近な人々の言動、あるいはドラマなんぞから、そういう解決法を学習した子供が真似てしまい、流行のEQと関連しますが…上手な対処を見出せるハズなので、「自殺以外に解決の方法がないから自殺する」は、問題点を見失われていると思います…すなわち、これも、そういう躾・教育を軽んじた家庭・学校に再考を促すべきケースと捉えるべきではないでしょうか?
ヒトってのが、生来、野蛮で、ゆえに戦争は無くならない…なんて、阿呆な自称・文化人が「朝まで…」とかいう番組でホザいていたりで、そんなコトは、いくらでも対処・予防できるし、そう出来るのも大脳・前頭葉の働きなのだと私は考えます。
例えば、10歳前後に迎える女の子の生理学的な変化…逃れようのない運命、これを「汚らわしい」と教え込んだりして、自己嫌悪に陥らせた時代が存在したのに、今や、堂々と「アタシも来たよ」と、誇らしげ?に、バスの車中で語らっていたりする。そういう機能を、社会に取り込める可能性…これを見過ごすか、軽視されているのではないでしょうか?
差別語など、マル禁語を追放しようとする時勢、多分、それまでの著作に多用してきた自称・評論家などは、猛反対している…そのようにしても、世の中は変わらないってのが論拠。だったら言葉だけでも無くしちまえ…それは何のメリットも無い…と、私は考えるヒト。
佐倉サンの、「悲劇の英雄」説ですが、生きる意欲を捨てたとき、そして死を試みるまでの心理的な変容が、とても当人に快いから、エスカレートしてゆく…深みに自ら進むのだろうと思います。その圧力に抗えるような、どんな生き甲斐が与えられているでしょう、この国で…そのプロセスで、マスコミ報道されるブラウン管の「主役」とWらせるコトも有るでしょうが、全てがそうだとは思えません。
10歳前後、私は、このコトもシミュったので、何となく理解に致せるのです。私は、内なる世界を拓いた…だからこそ、自殺は、選択肢の一つになりえなかった。
だったら、今時の子だって、育ち様によったら、もっと選べる場合の数が増やせるでしょう。打ち込める何か…そっちの道を用意してあげる…標準化(あるいは調教)されたヒトの量産…そんな不毛な教育行政は、もう不必要です。少子化の時代、もっと多様な教育の場を準備して、予算は惜しみなく、どの子にも先行投資(表現が不適切?)しましょう。ほんの数機、戦闘機をキャンセルすれば、それで事は足りる。
また、「自分たちの報道が自殺当事者に利用されていることに気づかない無神経さ」も、親から真実に愛されていない、ゆえに意思を強いられ、自由を奪われて育っているコトに帰来しているように思われます。エロ仕掛けのCM、ピーマン・カリスマ、奇を衒うだけの野島何某などの短絡ドラマ、等々、他者からの『意思』の強制に免疫が無い…逆に、当人も判っている当然な「指摘」に、キレてしまう。
ハリウット映画の主人公とか、格闘家(肉食の爬虫類や哺乳類の方がもっと凄い闘魂…要は、弱い者イジメが本質…屈折した巷の人間関係が投影されている?)、アイドルの発信した「情報」は、無批判的に受け容れてしまう…情報社会の「奴隷化」…こんな素地の上だから、マスコミ報道の「無神経」に憤られる…佐倉サン、お察し致します。
自殺者の遺す「メッセージ」に関しては、稚拙な「コミュニケーション」を感じます…言い残したコトを、相手に伝える…反省も、同情も、謝罪も無かったのに、その手紙は、隅々まで深く読まれ、理解されるだろう…このように想像したとき、彼の『不満』が解き放たれるのは想像に難くない。
また、「メッセージ」は、イジメ行為自体にも読み取るべきなのでしょう…そこには、育てた親の姿が映っています。何も、サラシモノにしようというのではなく、そういう親も、何らかの矯正が必要なのでしょうね。あるいは、生まれ直す「チャンス」が与えられるべきなのでしょうね。親・子でカウンセリングを受ける…そこにしか救済は無い。(理想を言えば、イジメられた側の親・子も加わって!)それを『罰』と受け取るとしたら、かなり重傷。オノレを知らなければ、非・オノレが理解できっこない。非行・犯罪の原因を、そういう初期不良と考えています。適応すべき環境に至るコト、開拓するコト、改革するコトは出来ない。
デリケートの極致、自殺の「報道」を、人情の機微も理解できない俗物が担当…そこに生じた当然の結果…幾つもの要素が有るのに、それ等を一括りで世間に伝える…こんな情報提供は、結果として混乱を与えているだけかも知れません。
思うのですが、論理学で言うトコロの「充足理由律」が軽んじられている…そうなるべくして成り、それ以外に成らなかった理由、これが証されないと、何も証明できないってアレです。そのタメに、定量かつ定性的に「イジメ自殺」という現象の切り口を示すべきかも、供養するするくらいの態度で、個々に…そうする気が有りさえすれば、端緒は自ずと見えてくるのでしょうから。そうでないと社会も、学校も、家庭も、個人も…幻を相手に格闘するコトになり、勝算は少ない。
つまり、佐倉サンの「イジメは自殺の原因ではなく契機にすぎないことを見抜くことのできない知的怠慢」と、この点でも、かなり近い。と思います。不純物が多すぎる報道。あるいは「ミソ・クソ」でしょうか。
何れにしろ、全人類が、自分自身を知るコトでしょうね…そんな威張るほどのモノじゃない…他民族も、それ以下の存在じゃない…不完全な者(あるいは文化)同士、力を借り合って、仲良く暮そうよ…って。情動レベルで、いきり立ち、憎悪で生きる姿を、同じ民族だからと庇うのは止めましょう…って。
トラブルの源泉である大脳・前頭葉は、同時に、ユートピアを思い描ける場でもあるのですから。トラブル・メーカー達を「陳腐化」して、その荒ぶる魂を、何らかの場を提供して、そこに封じ込める…それが手っ取り早いのかも。かの「1,2,3,ダー」も、滑稽ですが、町中で暴れないかぎり黙認できます。
新宿区東大久保に住んでいた頃の私の目指していたのは、世界一強い男ではなく、世界一弱くない男…近所に合気道の道場が有ったので、通おうと思ったのですが、それも止めましたっけ。
この辺り、「改憲派よりさらにラディカルな新憲法の必要性を説く」貴方、「日本人が共有する価値(平和主義、和の思想)を基本思想にした、日本人の、日本人による、日本人のための憲法が必要」と考えられている佐倉サンにも、受け容れてもらえるでしょうか?
この国が、もし何か発信できる「情報」が有るとすれば、仰る「和」は、デモクラシーがアメリカン・ネイティブ由来であるように、アジア的でもあり、『多様性』が止められない以上、その『豊かな』在り方を、わが聖徳太子の英知・洞察に由来する、この『和』に包み摂ろうとするコトは、素晴らしい発想と思います。
が…それで現行憲法の否定(現象的に等しい)を言い出せば、6でもない輩に利用され、和に非ざるマッチョなモノに改悪されかねません…先立たせるべきは、その「和の精神」に、この万々の民が包み摂られているような風潮、文化が(もちろん後立って)広まらねばなりません。
小泉氏が、9条を変えてしまって、その次に、どんな輩が継ぐくか知れないのです…最悪、またぞろ帝国主義的に進んだとして、天皇が、象徴として『同意』を迫られたら、拒絶、もしくは無視に努めるでしょうが、場合に依ったら「ノー」と言えないコトも有りえます。何時か来た道…この56年は何だったのか…となります。
和…連想ゲームじゃないですが、和歌は、自然との「和」がベースとなっていて、そこから始めるのが順当…と、この数年来、「5・7・5・7・7」とか、その体言止め的「5・7・5」を初めていますが…もっと盛んに「歌」や「句」が詠まれたら…と願っています。自然がギロチンされたりで、その反映対象が失われている今日、素晴らしい「歌」や「句」の流行るコトは、悲壮なオオタカとかムツゴロウとかヤンバルクイナとかの抵抗運動と連帯できれば、かなりのパワーと成り得るでしょうに。
文化人ドモも、アジテーションだけでなく、優秀なはずの首の上の物を働かせて、歴史に残るような「歌」や「句」を残せって言いたいです。
佐倉サンの、マスコミが「シナリオ」を先立たせ、事実から固有名詞を抽出、それを関数「X」に、オートマチックに当てはめていると批判されているのは、まったく同感です。問題なのは、事実に反しているるコトが発覚しても、無反省だったり、謝罪文が、第一報インパクトの数パーセントも打ち消していないという事実。フィード・バックされるコトの無い捲き散らし、垂れ流し…このアナクロなトップ・ダウンは「マスコミの暴力」と呼ばれ、かつて長野県松本市で起こった事件報道、無実の会社員を見ていたのに、『なんて悪い奴なんだ』と憎んだ私自身、それを「マスコミが全て悪い」で済ませていないのですから、マスコミに、もっと多く注文できるのではないでしょうか?
ウェットなニッポンの社会では、死者とかの「汚名」を棚上げする傾向が強くて、マイナーな相身互い…が…もう、それを現実が許容しなくなったのですから、「農耕文化が礎なんだから、そこは穏便に一つ」ナンテ言ってられないのも事実です。それも 自殺願望を培っていそうだから。
長いメールになりましたが、1対不特定多数…削除なさっても文句は言いません。この文章を書いた…という事実が在るのだから、それが全て。これでも…書きたい、申し上げたいコトの半分程度。
情報には、それ自体、固有の《振動数》が内在している…と、私は考えているヒトです。そんな実証も出来ないコトを言うな!と思われるでしょうか?
わが49年間を追憶すれば、幸せな半生だったと感じます。もし…母親に捨てられていたら…父親からの虐待を受けていたら…と、シミュれば、とんでもない極悪人に成っていたろう…なんて思います。少なくとも、幸せな人々を羨み、その家庭を壊したいという衝動に打ち克てたか、否か…自信は有りません。こういう直観に頼るのって、お好きじゃないんでしょうね。
佐倉サンほど、知識が多くないので、とんでもない知ったかぶりも少なくなかったでしょうけど、それに増して、無視できない内容も少なくない…と自認(⌒◇⌒)しています。
これから、貴方の「空」に関する御説を勉強させてもらいます…チンケなカルトが蔓延する不毛な世に在って、オアシスに辿り着けたみたく、楽しい経験でした、感謝を申し上げます。
御身、お大切に…では、また。
(なおEntropy_Zeroさんからのお便りのクローンに関する部分はこちらに載せました。-- 佐倉)
1.親にできること
上述の如き生き様の親が生きた手本であるような、子との関係は受け容れられますか?わたしが
わたしは、親は、子どもが自分で生活できるようになるまで衣食住をあたえて育てることができれば、親の責任は十分全うしたのだと思っています。また、教師は、それぞれの専門の科目の知識と技術を教授することができれば、教師の責任は十分全うしたのだと思っていますなどと言っているのがだいたいそれに近いのですが、ただ、わたしの場合は、「わたしがよい生き方を教えてあげる」とか「わたしがよい生き方の見本を生活の中で示してあげる」などという意識や姿勢を親が持つことに否定的です。わたしの場合は、子どもの手本となるためにそうするようなものではなく、ただ単に「それぞれ自分なりに、一生懸命生きるだけ」ということです。それがわたしの「親や教師にそれ以上のものを要求するのはおおきな誤りだ」ということの意味です。親や教師にそれ以上のものを要求するのはおおきな誤りだと思います。なぜなら、愛や徳の問題は知識や技術の問題とは根本的に異なっていて、「はい、みなさん、それでは、今日から愛を持って子どもたちに接しましょう」といって、できるようなシロモノではないからです。親も教師も神様ではありません。人間というものは、親であれ、教師であれ、カウンセラーであれ、誰であれ、それぞれ自分なりに、一生懸命生きるだけです。
(「作者より金子悦二さんへ 98年3月5日」)
わたしがろくでもない人間になったのは親が「よい手本」ではなかったからだ、とわたしは親を責めるべきでしょうか。わたしは、自分で生活できるようになるまで衣食住をあたえて育ててくれるだけで、「よくやった」と、親に100点満点の合格点を与えます。それ以上できればそれにこしたことはないでしょう。しかし、親に「よい手本」であることを要求することは、「一生働かなくてもよいぐらい財産を残してくれ」という要求より、もっともっと難しい、残酷な要求だと思います。自分の子どもに対して深い愛情も持てないぐうたらな親が、それでもなんとか衣食住をあたえて育てる義務を果たすならば、「よい手本」でなくても、それははすごいことだと思います。
2.子どもの犯罪は親の育て方が原因?
親から、有無も言わさず、ポカポカ殴られて育ったりすれば、力ずく意思を強いる…これが、親に屈服した時点で、子の学んだ「ルール」となるのでしょう?子どもが犯罪を犯すのは親の育て方が悪かったからであり、子どもが犯罪を犯さなかったのは親の育て方がよかったからである、というのはあまりにも単直すぎるとわたしには思われます。親の育て方を見て、その子どもが犯罪を犯すようになるかどうかを決定することはできないでしょう。わたしたちの経験は、善人の親から罪人が育ち、犯罪人の親から善人が育つという事実であり、同じ親の子どもでありながら、犯罪を犯す兄弟もあれば、犯罪を犯さない兄弟もあるというような事実を含むからです。親子関係が子どもの成長に大きな影響を与えることはあたりまえですが、この関係は、善から善が生まれ、悪から悪が生まれる、といった直線的な解釈を適用するにはあまりにも複雑なようです。親の悪を見て、子どもは、自分はそうなるまいと決意したり、また、あまりにも非の打ち所のない完全な親の愛情と善意に息が詰まり、悪に魅かれるということも考えられるからです。・・・社会からの禁則の「メッセージ」は、頭で判っていても、情動の激しい波濤の前では非力ですよ…それをコントロール出来ないのは当該の中学生の内に始まった犯罪者の資質なのでしょうか?親が荒れ狂う姿を見せるコトで身に就くのだと私は考えます。・・・少なくとも確率は高まる。
3.罰ではなく、更生?
少々、気になったのは、罰というのが、天罰カテゴリーではなく、司法の裁きを指していらっしゃるような…だとしたら、「アートマン肯定説」じゃないですが、仏教に親しんでいらっしゃる方らしくないような、俗世の(冤罪判決さえ仕出かす…その場合、絶対者からの越権の誹りを免れない、法精神の具現という、アートマン的な)裁く側に立っておられるような…ブッディスト?とエッセイストとの2足のワラジ的な…「Wスタンダード」とは申しませんが…セッカクの素晴らしいサイトに、らしからぬ印象を受けています。私の読み方が浅くて、実は、方便の一つなのかも)裁く…から、導く…世の中、そういう方向に変わりかけているように私は感じていますが。おっしゃるように、「罰ではなく、更生を!」のリベラル主義の道徳価値はもうずいぶん昔からヨーロッパに始まっていて、いまやすでにほぼ全世界を支配しつくしています。日本でも、「裁く…から、導く…世の中、そういう方向に変わりかけているように私は感じています」とおっしゃられるように、すでに支配的な考えとなっています。わたしはこのリベラル主義に批判的です。わたしは少数派です。
リベラル主義は、自分たちは救われる側でかわいそうな罪人に救いの手を差し伸べてあげる、という西欧キリスト教的考えを一般社会に延長したものですが、「更生して善人にしてあげよう」とか「導いて善人にしてあげよう」という考えの中には、犯罪人に対する差別心があります。そうでなければ「更生」とか「導く」という考えが浮かぶわけがありません。
いかなる社会であろうと、社会はその成員をまもるために規則を作ります。犯罪者はその犯罪の大きさにしたがって、罰せられます。たんなる小言の場合で終わる場合もあれば、罰金を科せられることもあるでしょう。凶悪なばあいは、社会から隔離されます。しかし、その規則はたまたま時代の権力者(わたしたちの時代では多数派)が決めたものであって、時代が変われば、立場は逆になっていたかもしれないものです。それだけでなく、社会に反抗する犯罪者の存在は、むしろ、ある程度、社会の健全さを示しているのです。社会の規則にだれ一人反抗しない社会ほど不健全な社会はありません。
わたしは、だから、純粋にただ罰するだけが望ましいと思っています。他人の人格領域に足を踏み入れて、人格を改造してあげようなどという愛情や善意は、自分は善人であると思い込んでいる者にしかできない行為だと思います。
4.単純な誤解
イジメ自殺…そんなに異常な事件ではない…と、佐倉サンは、誰憚るコトなく仰いました。もちろん、対症・予防が大切であると、フォローはなさっていますが…ニヒルで、ゾッとする気も致します。と、同時に…仰るコト、理解できます。わたしは、いじめ自殺はそんなに異常な事件ではない、などとは言ってはいません。単純な誤解です。ここは、もうすこし慎重に読んでいただきたいと思います。<いじめ>と<いじめ自殺>は別々の問題として取り扱うべきである、というのがわたしの重要な論点であり、わたしはその区別を曖昧にはしていないのですから。
いじめはそんなに異常な事件だろうか。ちょうど一般社会に犯罪があるように、学校においても子供たちのいじめがあるのではないか。・・・本当に異常なのは、そして痛ましいのは、いじめそのものより、むしろ、いじめにあった子供が、そのことを理由に自殺を選ぶという事態なのではないか。(「いじめ自殺、悲劇の英雄か」)