このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
98年4月2日
はじめてお便りいたします。横山貴史と申します。
「中学生の凶悪事件」1〜3まで読ませて頂きました。以前よりこの件は「親が悪いのでは?」と思っていた上にこの度結婚する事となり、いずれは親になる身といたしまして自分の見解を改めて他人の目で見て頂きたく思い、お手紙を差し上げました。まだ社会人としては未熟な者の意見ではありますが、御意見を頂きたく思います。
佐倉氏の主張は「本人の判断の結果が事件を引き起こしたので、その責任は本人にある」という立場を取っているとみましたので、そこを起点に反論させて頂きます。
まず私が思う事は、言葉で言っても解らないほど幼い頃の親のしつけについてです。この時点で親が子供をぶたないと、自分がやった事が悪い事だと気付かない上に、「人は暴力を振るわれると痛みを感じる」という事が解らないまま成長していきます。さらに、ぶたれないためにはどうすれば良いかと思案しないので「我慢する」という事を自分では思い至らず、「我慢しなさい」と言われてもその理由が分からないため、自分の思い通りにならないと泣いたりすねたりする「わがまま」な人格が形成されます。このあたりを理屈抜きで教えておかないと、様々な人間との交流をはじめる頃から必要な「知恵」が不足し、社会的に見て「凶悪」といわれる判断を下す(彼らん言葉を借りれば「キレる」)原因にもなると思います。このあたりの判断材料としては、言葉で教えられただけの「知識」だけではなく、実際に体験し、考察も交えた「知恵」が必要だと思います。まだ言葉が通じない人間に「個人の責任において判断、学習しなさい」と言われても無理な相談であり、その判断の基準になるものを誰かが与えなくてはならず、それは親にしかできない事だと思います。これは「親が子供を叱らなくなった」と言われ始めたのが丁度今の中学生が幼かった頃ではないか、という気がしたので思った点です。
これは犬のしつけも同じだと思いますが、犬だってえさを与えれば芸を覚えますし、逆にぶてば同じ事をしなくなります。人でも例を挙げれば、エスキモーは子供の手をストーブに触らせたりします。その事によって「火は熱く危険なものだ」という事を子供に教えるためです。言葉が通じないうちは体に覚え込ませるしかないのです。
この過程を飛ばして社会に出始めた者がわがままな振る舞いをして教師に暴力を振るわれ、自分が悪い事をしたという認識もないまま初めて体験する圧倒的な力を前に親に泣きつき社会問題にしたり、その行動が何を意味するか分からないままバタフライナイフを振り回した挙げ句、そこまでやってみて初めて「引っ込みがつかなくなる」事に気付いて相手を刺し殺したりしていると思われます。
また、「人格教育」をする権利は誰にも無いという事ですが、「本能のままに行動しては他人に迷惑がかかるので自分の理性で行動し、お互いに秩序を保ちましょう」という社会が成立している中へ新たな人間を送り出す以上、その理性の根本になる部分の教育は「その社会に既に存在し、新たに一人の人間をその社会に入れようとしている者(すなわち親)の義務」だと思います。しかし、その根本を教え込み、自分で判断する力が子供についてきたら余計な干渉は控えるべきでしょう。そして子供なりに他人と接して様々な事に自分で判断を下すなかで思いやりなどを学んでいく事を祈るだけです。さらにそこから「教育」する事はそれこそマインド・コントロールと変わらないからです。
ちなみに学校は「読み・書き・そろばん」を教え、社会は規則を作成し、違反者に罰を与えるだけで良いという点は全面的に同意します。今まで述べた理由から理性の根本を教えるのは親にしかできない事であり、それがなされていれば子供たちは学校という小さな社会の中で理性を自分で模索するだろうと思われるからです。そこに教師や社会が干渉するのはかえって逆効果とも思えます。
それでは責任はどこにあるのかの見解としては、「親の責任」「社会の責任」となります。親はこれまで社会の中で生きてきて問題も起こしていない以上は「理性」をもった存在であると判断できま。「理性」をもった人間が新たな人間を社会に送り出す際に必要な「教育」を怠ったという判断からです。また、社会の責任については、すでに「理性」をもって社会に出ている者に「教育」する様指導しなかった、さらに「少年法」等で「理性」がない者に「犯罪を起こしても法が守ってくれる」と思わせ、さらに歯止めを効かなくしている点が問題と思われます。様々な判断は個人の自由であり、個人の責任である点については同意しますが、その判断材料を自分で全て集めなくてはならないとすると、それこそ無秩序な社会となってしまいます。従って判断材料を与える義務は親と社会にあると思います。
以上です。
98年4月10日
わたしは横山さんの、親は子供をしつけるべきである、というご意見にはむしろ同感するものです。しかし、中学生が凶悪犯罪を犯すとき、それは親がしつけるべきことをしつけなかったからだ、というご意見には同意できません。「親がいかなる育て方をしようが、人は凶悪犯罪を犯すべきではない!」というメッセージこそ、わたしたちが子どもたちに送るべきメッセージだと思います。
(1)親の犯罪責任
もし本当に、中学生の凶悪犯罪の責任が親の教育にあるのなら、わたしたちの司法制度は本人ではなくその親を裁かなければなりません。しかし、わたしたちの司法制度は、親ではなく本人を裁くようになっています。そして、それは当然のことと思われます。なぜなら、犯罪とその犯罪を犯した本人との間には明らかなつながりがありますが、犯罪と犯人の親の幼児教育との間のつながりは、明確にすることができないからです。つまり、「将棋倒し」の最初の駒が次の駒を倒し、その駒が次の駒を倒してゆくような、事件のつながりの因果関係の一つ一つを、犯罪と親の幼児教育との間に明確にすることは不可能だからです。
このことは、親の幼児教育と中学生の犯罪を短直に因果関係で結びつける次のようなご意見が、事実の上にではなく、想像の上に形成されていることを意味しています。
言葉で言っても解らないほど幼い頃の親のしつけについてです。この時点で親が子供をぶたないと、自分がやった事が悪い事だと気付かない上に、「人は暴力を振るわれると痛みを感じる」という事が解らないまま成長していきます。さらに、ぶたれないためにはどうすれば良いかと思案しないので「我慢する」という事を自分では思い至らず、「我慢しなさい」と言われてもその理由が分からないため、自分の思い通りにならないと泣いたりすねたりする「わがまま」な人格が形成されます。このあたりを理屈抜きで教えておかないと、様々な人間との交流をはじめる頃から必要な「知恵」が不足し、社会的に見て「凶悪」といわれる判断を下す(彼らん言葉を借りれば「キレる」)原因にもなると思います。わたしたちは、想像上の因果関係でもって人(親)を犯罪人に仕立て上げることは、決してなすべきではありません。
(2)「しつけ」の限界
どんなに刑罰を重くしても社会の犯罪がなくならないように、どんなにしつけをしても、子どもは親の思うような人格に育て上げることはできません。親に甘やかされた者たちの間からも、親に厳しくしつけられた者たちの間からも、裕福な家庭からも、貧しい家庭からも、犯罪は生まれます。犯罪者の親から犯罪を犯さない子どもが育ち、犯罪を犯さない親から犯罪者の子どもが育ちます。
このような事実は、人間存在のある特殊な性質を示しています。犬は「おすわり!」と言われれば、いつまでも、「おすわり」するかもしれませんが、人間はだれでも、やがて、自分に命令をする者たちに対して、「どうして?」と問い返すようになるのです。その瞬間から、「しつけの意図」と「しつけの結果」との間には、埋めがたい断絶が生まれ、それ以後、その断絶は大きくなるばかりです。まさに、ここに、<犯罪事件から親の幼児教育へ連続する因果関係の糸>をわたしたちが見つけることのできない理由があります。つまり、「しつけの意図」と「しつけの結果」との間には<自由意志・独立した人格>という断絶が横たわっているのです。
(3)「・・・だから」と「・・・にもかかわらず」
凶悪犯罪を犯した少年と同じ様な家庭環境に育った同年代の少年たちの圧倒的に多くが、同じ様な状況の中でもそんな犯罪を犯さないとすれば、犯罪の原因が、幼児教育ではなく、本人の判断にあったとせねばならないでしょう。「親の幼児教育が良くなかった、だから、少年は凶悪犯罪を犯した」、という主張は、「親の幼児教育が良くなかった、にもかかわらず、少年は凶悪犯罪を犯さなかった」、という圧倒的な多くの事実の前で、説得力を失います。人間は、この「・・・にもかかわらず」という行為を行うことにおいて、独立した人格として、その自由意志を実行するのです。
わたしたちのこどもたちに対する希望は、ここに置かねばならないと思います。いかなる環境に育ったとしても、彼らが凶悪犯罪を犯さぬことを自らの意志で選び取ることを期待する以外に、わたしたちの希望の置き所はないと思います。
(4)親の幼児教育に期待すべきではない
少年の凶悪犯罪の問題に関して、わたしたちは親の幼児教育に期待することはできません。すでに指摘したように、しつけの意図としつけの結果との間にはどうにもならない断絶があり、親が自分の期待する人格を子どもの中に造り上げることなど不可能だからです。
そして、そのことは、とてもよいことです。想像して見て下さい、親や教師の教育したとおりにしか生きてゆけない人間ばかりが住む社会を!それこそ絶望そのものです。社会の反逆者の存在はその社会の健全さを示している、という逆説が成り立つのです。
(5)「少年犯罪は親の責任である」というメッセージは危険なメッセージ
さらに、もし、「少年犯罪は親の責任である」という考えが、誤って、わたしたちの社会の常識となれば、いかなる事態が生じるでしょうか。きわめて危険な事態が生じます。少年が犯罪を犯す度に親たちは社会の非難の対象となり、そのことによって、わたしたちは、子どもたちに、恐ろしい武器を与えることになるのです。つまり、「ぐれてやる!」「犯罪を起こしてやる!」という、親に対する脅迫手段をこどもたちに与えることになるのです。このような脅迫手段は、犯罪の責任は本人にあるということが常識になっている社会では、あり得ぬことです。
(6)中学生に弁解の余地はない
最後に、どんなに甘やかそうと、親は子供のすべての要求を満たすことはできないのですから、子どもは幼児のときに、周りの人間が自分の思うようにならないことを学びます。泣きさえすれば手に入れることのできた母の乳房も、泣いてもわめいても自分の思うようには手には入らないのだ、ということを知るまでには、それほどの時は要しません。したがって、親がどのような幼児教育をしようが、中学生にもなって、社会は自分のわがままな思いどおりに動かすことはできないのだ、ということを知らなかった、などという弁解はまったく認められません。
一般に、家庭内がどうであれ、社会はあらゆる場面で、それが存続するために必要な禁制のメッセージ(殺してはならない、盗んではならない、など)をそのメンバーに送っているのであって、それを、中学生にもなって知らなかった、などという弁解は絶対に許されません。
以上のような理由により、少年犯罪を親の責任とするのではなく、あくまでも、犯罪は犯罪を犯した本人の責任であるとすべきであり、また、いかなる家庭の事情によろうとも、人は凶悪犯罪を犯すべきではない、というメッセージをこそ子どもたちに送るべきだ、とわたしは考えます。
ご意見、ありがとうございました。