佐倉 哲さんへ

はじめまして、佐々木 ぴょん吉郎という井の中の蛙です。よろしく、どうぞ。

佐倉さんのホームページを拝見し、大変な勉強量だと感心しました。まだ、 すべてを読んだ訳では無いのですが、「仏教に関する・来訪者の声」の中 での、渡辺さんと佐倉さんの遣り取り(「自分で悟る」「分別思考1」「分別思考2」「分別思考3」「分別思考4」)は、興味深く読ませて頂きました。

特に、「同じ味噌ラーメン」のくだりは、私も味噌ラーメンが好きなので、大変、面白く読ませて頂きました。そこで私にも、一言、述べさせてください。

佐倉さんは、釈尊の云う、無常と縁起については、同意されている様子なので、それを前提に話をすると、佐倉さんの言われたような、「同じ味噌ラーメン」などというものは、残念ながら、実在しません。

厳密に言えば、「同じ味噌ラーメン」を食べることは出来ません。何故なら、刻々と変化している、無常という現実がある以上、仮に、「同じ味噌ラーメン」と名付けられた、刻々と、同一、為らざるものと成っているものを、食すことを経験している事実があるだけなのですから、「同じ味噌ラーメン」という普遍的事実は存在しないのです。要するに、我々が「同じ味噌ラーメン」について話をすることは、絵に描いた「同じ味噌ラーメン」を遣り取りするようなものなのです。

ただ、その『絵に描いた「同じ味噌ラーメン」』は、適切に使えば我々に取って、非常に有用で価値のあるものなのです。そういう意味では、『絵に描いた「同じ味噌ラーメン」』でなければ腹を満たすことは出来ないとも言えます。

よかったら参考までに私のホームページに掲載した論文を読んで下さい。

神道信者で仏教哲学者の、佐々木 ぴょん吉郎より
         Eメール cak23720@pop16.odn.ne.jp
論文と評論ページ URL  http://www1.odn.ne.jp/‾cak23720/

渡辺さんとのやりとりにおいては、わたしは、ただ、経験領域の事柄については、超越的な事柄についての場合と異なって、渡辺さんとわたしの両者は、なんの困難もなく「同じ」ものについて語ることができる、というようなことを述べたのですが、ここで佐々木さんが取り上げておられる問題は、ものの「同一性(アイデンティティー)」という別の問題です。ものは刻一刻変化しているのだからものの同一性は成立しない、という、いろいろな仏教哲学者がときどき取り上げる問題です。

確かに、佐々木さんがおっしゃられるように、ものはつねに変化しているのですから、現在のこのラーメンは、一秒前のラーメンとは同じものではありません。しかし、「ものは変化している」ということを言うためには、ものの同一性が前提にされていると思います。ものの同一性を前提にしなければ、一秒前のラーメンと現在のラーメンはまったく別々の存在としてしか理解することはできません。一秒前のラーメンが現在のラーメンに「変化した」、とは言えません。わたしたちの経験は、一秒前のラーメンと現在のラーメンをまったく別々の存在として捉えてはいません。一秒前のラーメン、そのラーメンが現在のラーメンに変化した、というのがわたしたちの経験です。

ものの同一性は経験事実であり、それを前提にせずしては、ものが変化しているということさえ主張できません。したがって、味噌ラーメンの同一性は、「絵に描いた『同じ味噌ラーメン』」以上の何ものかである、とわたしは思います。

おたより、ありがとうございました。