1、思考の停止について

おっしゃる通り、「思考(心の働き)の停止」は原理的には必要ありません。要点は、非常にシンプルです。我々は五感の働きにより刻々の生活を行っています。今この瞬間がそうです。ここで思考の働きを見てみます。例として音を取り上げます。誰かがバカヤローといいます。耳はただバ、カ、ヤ、ロ、ーと聞きます。その瞬間に思考が働き意味付けをおこない、腹を立てたり、ぶん殴ったりするわけです。例えば今私はカシャ、カシャ、というキーボードの音を聞いています。その瞬間にこの音はキーボードだなと分別します。

これらは当たり前すぎるくらい当たり前ですが、ここに注意をしてして頂きたいのですが、事実、現実、即今、この瞬間、現在、(何といってもいいのですが)が先行して、その後に思考が過去の記憶(例えばキーボードの音はカシャカシャという経験)を基に説明をするという働きをしています。ここまではたいした問題を引き起こしません。

ところが、現在の我々は五感をもち当然のごとく今に存在しています。それを思考が「自分が五感を感じている」と解釈、分別してしまうのです。思考はそれを実体だと錯覚します。すると、あらゆるものが自分の外にあると感じてしまい、また五感は移ろい行くので、恒常的なものである自己(自己感覚)を実体と錯覚し、どうも根拠はないが、自分の内側に自己があるはずだと確信するのです。そしてこの自己に至上の価値を置き、その為に一生を費やすことになります。外面的にはエゴイズム、内面的には、思考以外に自己があると思っているので葛藤が生まれます(欲望という思考が生まれると、そうであってはいけないという思考が現れる等々)。ですから、エゴイズムが悪いと騒いでもあまり意味がありません。エゴイストになるのは避けられない、また同様に葛藤の苦しみを持つことは避けられないからです。そこでこの苦悩から抜け出す為に、ディスコ行ったり、映画みたり(それが良くないということではありません)、それでも決着がつかないと宗教とかへ向かう訳です。そして、それなりの伝統的な本とか自身たっぷりの宗教家が何かそれらしいことを言えば、それに従っていきます。その背後には自分の確信がないので(ないし、自分では分かり得ないという諦らめからくる依存心から)、その信仰を危うくするものに対しては攻撃性を示します。

さて、話を戻します。自己が存在するとすれば、論理的に破綻するという説明は他にいくらでもあります。しかし、我々は(思考は)この誤解をとけないのです。というのは、思考は認識したものしか対象にできないからです。ところが、この瞬間は思考には捉えられません。捉えたとしたら過去です。ところが、我々はこの瞬間に平気で生きているのです。全宇宙は厳然として有るのです。思考が分別する前には自己、事物、空間、時間など、宇宙をバラバラにするものはありません。それが空であり、我々は既にその状態にいるということです。これが衆生本来仏なりです。ですから、なにもすべき事はないというのが本当のところです。というのは自己があるという夢をみているだけだからです。しかし、人はその夢からさめねばなりません。せっかく生まれてきたのですから。誰もかれも幸せに生きる権利があるし、それが可能なのですから。

そこで、話が戻ります。思考過程自体が錯覚の原因です。ですから、方便として、思考を一時停止させ、ないし、集中させ、その時思考が誤解に気づくという方便があるのです。(これは個人差があると思うのですが)方便は全く必要ないのですが、方便無しに気づくのは大変だと思います。また、方便至上主義になると全く方向違いになってしまいます。

長くなってしまいましたが、要点は、ある個人が自己の葛藤を感じ、苦しみ、その主体である自己を徹底的に解明するために旅に出るのだ、と決心するかどうかです。思考を使い、だまされず、そして思考を超え、誤解を見抜き、それを思考が理解するのだと決める事です。決断すれば必ずできます。決断する時初めて宗教書なり理論が役に立ちます。その時、宗教書を理解すること自体が目的ではなく、自己を解明するために宗教書の手助けを借りるということになるからです。

思考は素晴らしいものです。まさに天の恵みです。その思考を十分に働かせるために、誤解を解く事。その為にしばらく思考の制御(停止)という無駄な方便を使う方法 があるということなのでしょう。

2、思考を通じて人と語り合う事について、

まさにその通りです。

以上荒っぽいかもしれませんので、何か舌足らずのところがあればお知らせ下さい。 以上宜しく。

思考以外に自己があると思っている…
確かに、デカルトに代表されるように、「自己」というものがまずあって、それが「思考をする」のだ、という考え方に、わたしたちが陥りやすいのは事実だと思います。考えたり、感じたり、動いたりすることとは別に、独立した「わたし」という主体が有るかどうかはきわめて疑わしく、「わたし」とは、考えたり、感じたり、動いたりすることの総称にすぎない、というのが事実かも知れません。考えもせず、感じもせず、動きもしなくなったとき、「わたし」は死んだと見なされ、「わたし」なるものは消滅してしまうように思われるからです。

しかし、「わたし」とはそのようなものであるに過ぎないとしても、それは無限定に時空の中に広がっているものではなく、きわめて限定された局部的なものに過ぎないことも明白な事実です。「わたし」は「わたしの」左右の手を自由に挙げたり下げたりすることができますが、同じような自由性をもって「あなたの」手を動かすことは出来ないからです。「わたしの」全経験が、「わたし」とは別に「あなた」があって、「わたし」がきわめて限定的で局部的なものにすぎないことを指し示しています。この差別はわたしの思考が勝手に作り上げたものではなく、わたしの思考がどんなに、「わたし」と「あなた」は別々のものではない、と思い込もうとしても、そうさせない厳然たる証拠をわたしの全経験が次々に突き出してくるのです。「あなた」はいつか、思考をやめ、感じることをやめ、うごくことをやめて、死んでいきますが、そういう「あなた」の死を見届けて、「わたし」は、思考し続け、感じ続け、動き続けることができるのです。

近代日本の禅系の思想家がよく主張するように、言葉や分別思考が「わたし」と「あなた」をバラバラにしているのではなく、むしろ、どうあがいても「わたし」と「あなた」は別々なものであるという、どうにもならない経験が、人類をして言葉というコミュニケーションのための道具を造り出させたのではないでしょうか。言葉があってはじめて思考が可能ですが、もし、本来「わたし」と「あなた」が別々のものでなかったとしたら、人類の間に言葉が生まれてくる必要もなかったであろうと思われます。