もし、すべてのものは一つである、というような西田・鈴木の思想の主張が、本当に 「だれでも体験できる普遍的な事実」ならば、それがなぜ、禅者(のなかのごく一部 の人々)という人類全体から見ればきわめて限られたグループの人々によってしか主 張されていないのでしょうか。特殊な思想を持った人だけが気づくことのできる「事 実」などというものに対しては、わたしは、はなはだ懐疑的にならざるを得ません。数に関してはそうかもしれません。問題は社会的、個人的な条件付けが強すぎるから だと思います。目の前の事実なのに、気づきません。ひょっとすれば、社会の常識が 変わり、もっと気づきやすくなる時代がくるのかもしれませんが、今の処、有効な方 法は個人的には禅だと思います。おそらく、優秀な師家の下でその気になってやれば 、5ー10日である程度は分かると思います。 あまり喩えとして適当かどうか分かりませんが、昔々割り算をできる人は少なかった と思います。しかし、習えばだれでもできるようになります。習うか習わないかが決 断だと思うのですが・・・・
もし神の存在が本当に「だれでも体験できる普遍的な事実」ならば、人がどんな思想 もっていようが、否応なしに受け入れざるを得ないはずです。ところが、神の存在を 信じる思想を持った人々だけが、「神の存在は事実」であると思いこんでいるに過ぎ ないのであって、そのような思想を持たない人はそれが事実であるなどとは思いせん 。このことは、「神の存在」などというものが客観的な根拠のある事実ではなく、あ る特殊な思想に影響された個人的な思いこみに過ぎないことを示しています。神の問題はあとにしましょう。しかし、申し上げていることは思想ではありません。 いかなる思想もでてくる前の話です。我々がまさしく知覚しているあるがままの事実 です。これには普遍性があります。思想ではないので、禅問答などがなりたつのです 。思想であれば応用がきかず、即座の反応など出ようもありません。
わたしは、「言語や思考以前には<わたし>と<あなた>は一つであった」などとい う主張も、おなじようなものだと思っています。きわめて特殊な思想を持ったグルー プに所属する人たちだけが主張している「事実」だからです。それは、「神」と同じ ように、思想の中にしか存在しない形而上学的な観念に過ぎないだろうと思います。目や鼻や舌や手の感触の対象とならないものは、心が作り上げたものに過ぎず、それ を事実と思いこむことこそ「迷い」である、というのが仏典から学んだわたしの理解 するブッダの立場であり、わたしの経験とも一致するものです。みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切 」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と 眼に見えるもの、耳と耳 に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触 されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、そ れは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その 主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、 彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(ブッダ、Sanyutta-Nikaya 33.1.3 )
その通りです。主体はありません。主体がないということが、宇宙は一つだと いうことです。これ以上の理屈はありません。 おそらく、あとは佐倉さんがやってみるか、みないかにかかっているのだと思います
「あとは佐倉さんがやってみるか、みないかにかかっている・・・」と言われますと、わたしも返す言葉がありません。それでも、なにか、語りたいことがわたしの中に生まれたなら、そのとき、また、おしゃべりを続けることにしましょう。