佐倉様

渡辺と申します。サラリーマンやってます。
初めて御連絡申し上げます。
ご熱心さと博学さにははなはだ関心しております。

とくに仏教関連の処を拝見しておりまして、感じたのですが、それほど熱心であり、 かつ、理論的にも確立されておられるのなら、お釈迦さんが何を言おうが関係ない、 (例えば)無我は無我だとご自分自身で確認されたらいかがでしょうか?

こういうと怒る人もいるとは思いますが、キリストであれ、釈迦であれ、所詮他人が 言ったことです。それを追い回していくことはそれはそれなりの意味があるとは思う ものの、芸能界のスキャンダルを追いかけて、誰がどうした、とニュースにしている のと本質的な差はないと思われます(別に芸能界のニュース記者の仕事を軽蔑してい るつもりはありません)

無我であることを確認するのに別に方法は大事ではなく、その気になってあるかない か確認すればよいだけのことですが、あまりに単純すぎるので却って見えずらいので 、有力な方法として坐禅とか念仏とかが伝わってきているということなのでしょう。 個人的には坐禅をお勧めしますが、佐倉様の熱心さを拝見して、おそらくは余計なこ ととは思いつつメールをお出しする次第です。もし興味がないようでしたら無視して 下さい。

以上宜しく。



(1)信仰の問題と歴史の問題

まず、最初にはっきりさせておきたいことは、わたしは、「永遠の魂があるかどうか」ではなく、「仏教(ブッダ)は永遠の魂を説いたか」という歴史の問題を取り上げているということです。わたしは、「魂があるかどうか」という問題は信仰に属する問題であり、個人の問題であると思っています。したがって、魂を信じていようがいまいが、それに対して、わたしは口出しするつもりはありません。しかし、歴史の問題は事実の問題です。人類の共同財産です。したがって、その解釈に相違がある場合は、文献資料に基づいてしっかり論議がなされることが必要だと思われます。

(2)自分自身で確認すること

お釈迦さんが何を言おうが関係ない、(例えば)無我は無我だとご自分自身で確認されたらいかがでしょうか?
ここで、渡辺さんは、伝統や権威に依存しないで、自分で真理を確かめよ、と言われているのだと思いますが、そういう意味では、渡辺さんはとても大切なことを述べられていると思います。ただ、わたしにとっては、他人の経験や確信とまったく同じように、自分自身の経験や確信も疑うべきものなのです。
自分以外のものを信ずるほど、はかないことはない。しかし、その自分がいちばん頼りにならない、と分かったとき、森田君、人はどうすればよいか? (夏目漱石)
漱石の提示したこの大問題に禅者はどう対処するのでしょうか? 独りで静かに熟慮することと共に、やはり、他人との遠慮のない意見や批判の交換も、それに劣らず大切なものなのではないでしょうか。

おたより、ありがとうございました。


再び渡辺 充さんより

97年11月4日

渡辺です。

ご返事拝見致しました。ありがとうございます。


(1)信仰の問題と歴史の問題

了解しました。


(2)漱石さんの話はまさにその通りだと思います。自分以外の意見を信じることは はかない、かといって自分を振り返ってみれば全く頼りにならない。さてどうするの でしょうか?いずれにせよ分からないからとギブアップするのか、それでも進める処 までとにかく論理と自分の有らん限りの明晰さ(もしそのようなものがあればですが )を使い、自己欺瞞を避けつつ行ってみようとするのかが分かれ道となるのでしょう。

自分の事を見れば、環境に影響され続けて犬のように条件付けを受け、つまらない事 に気を使い、考えてもしょうがない事を心配し、難しいことを考えたりして楽しくな ったり、とてもまともとは思えません。そのような目で回りを見まわしても誰もが似 たりよったりで、とても頼りになりません。また、仮に素晴らしい人間がいるとして も、こちらに見る目がないのですから判別しようがありません。

ところが自分の非合理性はどうゆう訳かその気になれば気づく事ができます。誰かに あたったり、妙に不機嫌になったり、心配が嵐のように押し寄せてきたり、それは明 らかに非合理性です。ここからは少し話が荒っぽくなりますが、そして非合理性を調 べていくと、どうやら主観たる実体と客観たる実体があることから派生していそうだ なということに気づきます。自分の内側でいえば、非合理性が客体でそれをその時に 気づいているものが主体です。これはお分かりの通り矛盾です。また、主体がなけれ ば非合理性は消えてしまいます。非合理性をいじらなければ自然に消え去ってしまう からです。

そこで探求が始まります。主体はあるのか、つまり無我か有我かという問いです。論 理的には他の方法でもょいでしょうが、追いつめていくことは可能です。さてここか らが気合です。理屈でおぼろげながら分かるのですが、どうにも自分で納得がいきま せん。ただ原理的にそれを分かる手段がないのです。というのは既にそうだからです 。分かろうとすること自体がすでに間違いだからです。但し、知覚をしようとしてい るのが思考である事そして知覚の邪魔をしているのが思考である事には気づく事がで きます。そこで思考の停止という方便が生まれてくるのです。ですから、原理的には 坐る事も含めて一切の方便は必要ありません。洞察があれば十分なのですが、条件付 けが強くて、なかなか洞察が働かないというのが実際です。

誤解されるといけませんので申し上げておきますが、私自身は無我を徹底して見届け ている訳ではありません。日常生活ですぐ我が出てくるのにいいかげんうんざりし、 またなにくそーという事で毎日をすごしております。この流れの中で、他人との意見 、批判の交換を持ち、いかに自分たちが宗教とか神とか禅とかに依存し、感情的にな っていくのか(特にホームページにのっているキリスト者の意見等にはただならぬも のを感じました)を見てゆき、人間の依頼心の構造を自分の問題として看破できれば と思っています。また、加えて、単なる信仰ではなく、論理と明晰さで根本的な問題 に肉薄しようとする人々が一人でも多く現れて、共に意見交換し、励ましあい、切磋 琢磨できたら幸せなのです。

何を書いているのかわからなくなってしまいましたが、何かコミュニケーションでき ていることを望みます。もし余計でしたら気にせず無視してください。 ご返事有難うございました。 どうぞ宜しく。



再び作者より渡辺 充さんへ

97年12月13日


思考が洞察をじゃましている、という渡辺さんのいわれていることをわたしなりに解釈しますと、何にもとらわれない立場で素直にものごとを見つめることが大切である、ということではないかと思います。米国で禅を指導しておられた鈴木俊隆氏(1905-1971)は、そのことを「初心」といって、それこそが禅の心であるといわれています("Zen Mind, Beginner's Mind", WEATHERHILL出版)。そして、それは、おそらく、仏教のもっとも中心的な思想であると思われます。

ただ、そのために、「思考を停止する」ことが必要なのかどうかは、わたしにはすこし疑問に思われます。初期仏典に記録されているブッダやその弟子たちの語る「瞑想」は、神秘主義的禅が語る瞑想とは異なり、ただ、一人静かにものを考えることを意味しているように思えます。「独り静かに瞑想していると、…という疑問がわいた。」とか「独り静かに瞑想していると、…という考えがわたしに浮かんだ。」というように記述されており、思考を停止したり抑止したりするのではなく、むしろ積極的に思考を展開しているように思えるからです。そして、そのような思考の結果生まれた疑問や考えを、ただちに、ブッダや他の弟子たちと、語り合っています。そのために、古いお経のおおくは素朴な質疑応答の形式になっています。

たとえば、「毒矢のたとえ」という有名な経は、ある弟子が一人で瞑想していたとき、彼の心に一つの疑問がわき起こったことから記述をはじめます。この弟子は、その疑問をブッダのところにいってぶつけます。

師よ、わたしが人影のない場所に行って静思しておりましたら、こころに次のような考えが起こりました。…
それに対して、ブッダは「毒矢のたとえ」でもって答えます。そして、結局、その弟子はブッダの見事な回答に「歓喜して世尊の教説を信受した」という話になっています。

また、コーサラ国の王パセーナディは、ブッダを訪れて、

世尊よ、今日わたしは、夫人のマリッカーとともに、高楼に登っていたとき、ふと、彼女に、この世に自分自身よりも愛しいものがあろうか、と問うてみた。彼女は、自分自身より愛しいものは考えられぬ、と答えた。そして、わたしはどう思うかと問い返したが、わたしにも、自分自身よりもさらに愛しいものは考えられなかった…。このことはどうであろうか。
と尋ねていますが、それに対して、ブッダはうなずいて、次のような偈をもって答えています。
人の思いは何処にも行くことができる。
されど、何処に行こうとも、
人は己よりも愛しきものを見出すことを得ない。
それと同じように、
すべて他の人々にとっても自己はこのうえもなく愛しい。
されば、
おのれの愛しいことを知る者は、
他のものを害してはならぬ。

(サンユッタ・ニカーヤ3:8、増谷文雄訳)

ここでは、パセーナディ王は瞑想さえしていません。妻との会話の中でふと思い浮かんだ考えを、それについてどう思うか、とブッダに尋ねているのです。そして、このことによってパセーナディ王が引き出したブッダの言葉は、仏典の中でももっとも美しい偈の一つとして残されることになったのです。

心に疑問がわく。それを他の人と語り合う。そして納得する。このような人間の活動は、思考を積極的に活用することによってのみ可能となるように思われます。

わたしは仏典を常識的にとらえすぎているでしょうか。