このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年5月10日
以前は主に、神が人間に関わることの不合理について述べましたので、今回は逆に人間が神に関わることの不合理についても簡単に触れたいと思います。
人類最初の殺人として描かれる、カインとアベルの悲劇の発端となったのは、神に捧げた犠牲がカインは好まれず、アベルは受け入れられたことにありました。神がカインに語る内容からすると、カインの心の状態が良くなかったようですが、それはともかく、少なくともカインにとって、神に是認されるかされないかが弟を殺害するほどに重要な意味を持つものだった、ということは確かです。
いったい、カインやアベルは誰からそれほど熱烈な信仰心を教えられたのでしょうか。アダムやエバ(特にアダム)は、神を完全な思考力によって拒否しておきながら、息子たちには神を熱心に崇拝するように教えたのでしょうか。だとしたら、アダムは失楽園後、神に逆らったことを後悔した、つまり、アダムの判断力は最初から欠陥のあるものだった、アダムは完全な人間ではなかった、そのアダムを禁じられた木の実によって試し罪に定めた神はひどい神である、ということになってしまうように思われます。
また、アダムやエバではなく、神が直接カインやアベルにご自分の存在を教え、信仰心を植え付けたのだとしたら、前回『神が人間に関わることの不合理』でも述べたように、アダムとエバに主権者たる地位を否定されたはずの神が再び人間の主権者として登場することになり、禁じられた木の実の試験の意義が全く色あせてしまいます。
このように、アダムの子孫でアダムの罪を受け継いだとされる人類が、片方では、神を拒否するというアダムの重要な特質を受け継がず、いまだに神を模索するのは、創世記の物語ではうまく説明できず矛盾がある、と思われます。
天地創造、ノアの洪水などの記述の真偽は、科学や考古学の専門知識がないと考察できず、わたしのような無知の者にはどちらとも判断しかねる状態なのですが、この「神と人間が関わることの不合理」は、専門知識がなくても明らかにおかしいと判断できるものです。また、聖書の根幹を成す話だけに、これに明確な説明ができなければ、聖書全体が根底から覆される大問題でもあります。
もっともわたしの聖書解釈には、わたしが聖書を学んだ教団の影響が残っているかもしれません。そこで、前回の『神が人間に関わることの不合理』と今回のメールをあわせて、もしわたしの解釈に間違いがあれば指摘してください。また、佐倉さんが両メールの内容に対するキリスト教の一般的な見解をご存じでしたら、教えてください。できれば、これを読んだキリスト教信者の方からもご意見をお聞かせ願えれば、幸甚に思います。
では、失礼します。
00年6月11日
前回の『神が人間に関わることの不合理』と今回のメールをあわせて、もしわたしの解釈に間違いがあれば指摘してください。創世記の神話的な部分は、世界中の他の神話と同じように、いかようにでも解釈が成り立つ曖昧な物語りの寄せ集めですから、正しいとか間違いとかということは言えないと思います。いろいろな解釈があるだけだと思います。
アダムとエバの失楽園の物語は、人間には神々のような知恵があるが、神々のように永遠に生きることはできないことを説明するために作られた古代の神話であり、カインとアベルの物語は農耕民と遊牧民の間の古代の争いが、遊牧民(イスラエル)の側から見た観点で伝えられてきた昔話であると考えられます。わたしの場合は、そんな昔話が寄せ集められてできたのが聖書である、という解釈が好きです。
もちろん、キリスト教の場合は、失楽園神話のなかに原罪を読み込みます。そうすることによって、人類がイエスという救い主を必要とするという新しい物語り(新約聖書)が出来上がり、彼らの教祖の価値が上がるからです。
おたより、ありがとうございました。