このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年3月17日
こんにちは。水野です。返答を拝見しました。
よく誤解されますが、わたしは神を信じてはいませんが、神を否 定しているのではありません。知らない事柄については肯定も否 定もできないからです。わたしは、神(とくに自分の救いに都合 の良い神)のイメージ〔像)を勝手に作り上げることを止めただ けであって、「いつどこからどう出現してくるとも分からない「 神」」には、いつでも、出てきて欲しいと思っています。上記のお考えは、よく分かったつもりです。
確かにそのとおりで、わたしも前々から思っていたのですが、 どうして神は、ノア、アブラハム、モーセなどの古代義人の前には積極的に現れたのに、 時代と共に人間からだんだんと遠い存在になり、単なる「信仰の対象」と化してしまった のでしょうね。
旧約の時代の神はとても身近で、人間を叱咤激励しながら先導する 「厳格な父親みたいな存在」だったのに、新約の時代以降になると、 信仰を持たなければ感知できない、という条件付きの「遠い雲の上の存在」 になってしまいます。おかしいのは、聖書が神のこの不可解な方針変更について、 何ら明確な説明を与えていないことです。
しかしよくよく考えてみると、禁じられた木の実を食べて神を捨てたはずの人類を、 なぜ神は見捨てず、引き続き関係を持とうとしたのでしょうか。 アダムは完全な人間だったので、木の実を食べる際に、 これで自分は神から離反する、というはっきりとした意志を持っていた、と思います。 愛する女にそそのかされてついふらっとやってしまった、というのは不完全な 人間に限った話であり、アダムの場合は明らかに違ったはずだ、と思うのです。
つまり神は、完全な人間アダムの完全な意志により、完全に拒絶されたのです。 人間はみずからを「神」とする道を選んだのであり、神はもはや人間に対して、 「神」という主権を失ったのです。禁じられた木の実を食べることには、そういう 意味があったはずです。
にもかかわらず神は、カインがアベルを殺すと、当たり前のように登場してきて、 カインを裁きます。言ってみれば、勘当したはずの子供の前にのこのこ出てきて、 なんだかんだと指図をしているようなものです。とても妙な構図だと思います。 (もっとも人間も人間で、否定したはずの神に仕えようと、カインやアベルが 犠牲をささげたりして、神・人間双方とも筋が通っておらず、訳が分かりません)
中には、人間が罪を犯した後も続くこうした神の働きかけを、神の憐れみだ と考える向きもあるようですが、それは違うと思います。完全な人間が犯した罪に、 情状酌量の余地はないはずだからです。もし神が憐れみゆえに人類との関係を 存続させたとすると、はじめからアダムは憐れみを受けるに値する存在、つまり、 不完全な人間だった、ということになってしまいます。
「いつどこからどう出現してくるとも分からない「神」」には、 いつでも、出てきて欲しいと思っています。確かにわたしも佐倉さんと同感ですが、よく考えてみると、そもそも人間に捨てられ、 その神性を否定されたはずの神が、また人間の前に「主権者」として登場すること自体に、 既に矛盾があるように思います。神から離れることを自ら選択した人類になおも忠誠を 要求し、時には怒って大洪水を起こしたり、恐ろしい天罰を下したりして、
じゃあ、いったい「禁じられた木の実」の試験はなんだったのですか? それを食べることは、神の支配よりも独立を望む、という人類の意志表明であると、 あなたが決めたのではなかったのですか?と神に問い返したくもなるのです。
かと思うと、近代に至って神は熱が冷めたかのように沈黙を守り、どんなに世が乱れ ようが、どんなにクリスチャンが殉教しようが、古代のような介入はやめたようです。 一体、神はどういう行動規準で行動しておられるのでしょうか? 神は単なる気まぐれ者なのでしょうか?
(以上の内容で、何か論理の間違いがありましたら、指摘してください。また、一般的な キリスト教のこれに対する見解を佐倉さんがご存じでしたら、教えてください)
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もっともわたしは以上の考えを、究極的に正しいとは思っていません。 なぜなら、神がいるかもしれない、という可能性を無視できないからです。 仮にも神であるという以上は人間以上の存在である神、つまり、 人間以上の知恵、人間以上の科学、人間以上の力を持っているであろう神がもしいるなら、 人間のどんな真理めいた主張も、余裕で覆すだろう、と思うからです。
もちろん佐倉さんのおっしゃるとおり、神の存在は肯定も否定もできないものとして 充分認識しております。ただし、この認識は人間を信仰に拘束しないかわりに、人間を 「神」という概念から解放もしません。むしろ、物事を考えるとき神の存在する可能性を 無視すべきではない、という制限を課すものと理解しております。そして、その制限 のもとに聖書を考察するとき、たいていの結論は、
「人間的見地からすれば、・・・・・・・・・・と思われる。ただし、正しいかどうかは分からない」
というはなはだ貧相なものになってしまわないでしょうか。なぜならもし神がいるなら、 その超人的存在ゆえに神が真理を規定すると思われるが、その神の存在の有無を人間は 客観的に知らないからです。つまり、神の有無を知ることのできない人間は、 同時に真理を知ることもできない、ということではないでしょうか。
また長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。 できれば、佐倉さんのご批判をお待ちしております。 では、引き続きがんばってください。
00年3月26日
わたしの感想です。
(1)「否定できない」と「無視できない」
もちろん佐倉さんのおっしゃるとおり、神の存在は肯定も否定もできないものとして充分認識しております。ただし、この認識は人間を信仰に拘束しないかわりに、人間を「神」という概念から解放もしません。むしろ、物事を考えるとき神の存在する可能性を無視すべきではない、という制限を課すものと理解しております。
知らないことはわたしには肯定も否定できないわけですから、「神の存在する可能性」も、当然、否定はできないわけですが、「無視すべきではない」というのは少々無理だと思われます。なぜなら、知らないことは無限にあり、その一つ一つの可能性のすべてを「無視するな」というのは、有限な人間には不可能だからです。
物事を考えるとき、「天地初めてあらわれしときに、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神・・・」(古事記)という可能性を無視すべきではない。物事を考えるとき、「道は一なる気を生み、一なる気は陰陽の二気を生み、陰陽の二気は三なる冲気を生む。万物はこのようにして陰気を背に負い、陽気を前に抱え、冲気をもって調和の本とする・・・」(老子)という可能性を無視すべきではない。物事を考えるとき、「このもの[宇宙]は、かつて暗黒からなっていた。それは認識されず、特徴なく、推測を越え、識別されず、いたるところで眠っているかのようであった・・・。彼は自らの身体から種々の生類を創造しようと欲し、熟慮した後、まず初めに水を創造し、その中に種を蒔き落とした。それは太陽のように輝く黄金の卵となった。そしてそのなかに一切の世界の祖、ブラフマンが自ら誕生した・・・」(マヌの法典)という可能性を無視すべきではない。物事を考えるとき、「宇宙の本体はブラフマンでブラフマンは吾人の心即アートマンである。このブラフマン即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった・・・」(西田幾多郎)という可能性を無視すべきではない。
さらに、物事を考えるとき、創価学会の教えが正しいという可能性を無視すべきではない。物事を考えるとき、立正佼成会の教えが正しいという可能性を無視すべきではない。物事を考えるとき、霊友会の教えが正しいという可能性を無視すべきではない。物事を考えるとき、真如苑の、PL教団の、仏所護念会教団の、天理教の、ものみの塔の、統一教会の、阿含宗本庁の、オウム真理教の、幸福の科学の、ライフスペースの、諸々の教えが正しいという可能性を無視すべきではない。そして、物事を考えるとき、マルクスやエンゲルスやニーチェの無神論が正しいという可能性を無視すべきではない。・・・・
このように、物事を考えるとき、否定できないことすべてを「無視すべきでない」とすると、おそらく、わたしは何一つ考えることはできなくなるでしょう。もちろん、もし、わたしが、聖書の神の存在の可能性だけが「無視すべきでない」という偏見をもっていれば別ですが。
(2)人間的見地と神の見地
そして、その制限のもとに聖書を考察するとき、たいていの結論は、「人間的見地からすれば、・・・・・・・・・・と思われる。ただし、正しいかどうかは分からない」
というはなはだ貧相なものになってしまわないでしょうか。なぜならもし神がいるなら、その超人的存在ゆえに神が真理を規定すると思われるが、その神の存在の有無を人間は客観的に知らないからです。つまり、神の有無を知ることのできない人間は、同時に真理を知ることもできない、ということではないでしょうか。
神について無知であるかぎり、「神の見地」などというのは、どこまでも、「これが神の見地であろう」と考える人間的見地でしかあり得ないでしょう。だから、「(神の見地では)正しいかどうか」などと自問することは、わたしにとっては無意味です。それゆえでしょうか、「(神の見地では)正しいかどうかは分からない」という文句も、また「(神の見地では)正しいかどうかは分からない」ことを「なはだ貧相なもの」と思う感覚も、わたしの中では生じないようです。むしろどちらかといえば、信仰者であった(神について自分が何も知らないことを、知らなかった)ときと比べて、知識や真理というものに「神の見地」などというものを持ち込まないようになった今は、前より「豊かになった」と自分には思われます。
おたより、ありがとうございました。