このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年5月10日
こんにちは。水野です。いつも丁重な対応ありがとうございます。
(1)「無視すべきではない」を撤回したのではない
間違いの指摘というよりは、むしろ、水野さんとわたしの、問題の捉え方の違い、問題に対する姿勢の違い、というぐらいのことだと思いますが・・・「無視すべきではない、という制限を課す」ではなく、「無視しない」ことも「実行可能」である、ということでしたら、もちろん、わたしには何の問題もありません。
人の興味の範囲は限られていて、自分の興味のない範囲のことは無視せざるを得ないのは、有限な人間としてはしかたないことですから、水野さんが他人の神を無視せざるをえないように、他人も水野さんの神を無視せざるを得ない、ということは必然的に起こるわけです。そのとき、人々が水野さんの神を無視したからといって、水野さんの神は「無視すべきではない」などと「制限を課」されたのでは、人々はたまらんだろうなあ、と思ったのでした。
しかし、今回、そうではなく、自分の興味のある神について考えているとき、その神の存在の可能性を無視しないことも可能である、ということだそうですから、これはもう、わたしにとっては何の問題もありません。
「何の問題もありません」と言っていただくのはとてもうれしいのですが、どうもわたしの考えがうまく伝わっていないように思われます。佐倉さんは、わたしが、「無視すべきではない、という制限を課す」という表現を取り下げ、「無視しないことも実行可能である」という言い回しに変更したと受け取っておられるようですが、もしそうでしたら、それは誤解です。
『知らないことは無限にあり、その一つ一つの可能性のすべてを「無視するな」というのは、有限な人間には不可能』(2000年4月4日返信)であるという佐倉さんの指摘に対する反論として「実行可能」という言葉を使ったまでで、わたしは、「制限を課す」という考えを撤回したわけではありません。
またわたしの説明不足でしたが、わたしはこの「制限」を万人に課されるべきものとして述べたつもりはありませんでした。わたしはこの制限について語るとき、わたしと同じ立場にある一部の人々、つまり聖書の神の存在を肯定も否定もできないとする立場から聖書の真偽について考えている人々を想定していました。
まとめますと、わたしは、聖書の神の存在を肯定も否定もできないとする立場から聖書の真偽について考える人々にはみな共通に、聖書を吟味批判する際に聖書の神の存在する可能性を無視すべきではない、という制限が生じるはずだ、との考えを今でも変えていません。
聖書の神の存在を肯定も否定もできないとする立場から聖書の真偽について考える以上、これは必然的に発生する「制限」であり、聖書の神の存在する可能性を無視しないのも可能だし、無視するのも可能というような、「問題の捉え方の違い」などの余地を残すものではない、と思います。
(2)わたしの神像について
神に限らず、内容を持たないものの存在など、想定することはできないのではないでしょうか。何であろうと、その存在を想定するためには、その存在を規定する何かがあらかじめ前提にされていなければならないでしょう。たとえば、水野さんの神像は、(ア)知や意志を持ち合わせた何らかの人格的存在であり、(イ)人間より上位の権威を持った存在であり、しかも、(ウ)人間に関心を持っている、といったさまざまな特殊な(キリスト教臭い)内容をすでに持っています。そうであってはじめて、その神は「人間の正論を覆」すことができるわけですから。
これについては啓発される点が多くありました。わたしは知らず知らずのうちに、世界中で崇拝されているたくさんの神々を聖書の神と混同し、同じイメージで考えていたようです。したがって、前回のわたしの主張(2)、
・人間は人間的見地からしか考えることができない。 ・神の存在が肯定も否定もできず、あり得る以上、神の見地の存在もあり得る。 ・神の見地が存在し得るとすると、人間のどんな正論も覆される恐れがある。 ・よって、人間が宗教について批判するとき、「この考えは人間的考えであり、 究極的に正しいとは言えない」という結論までしか出せない。をわたしは他の宗教の神々にも適用できると安易に考えていましたが、これは聖書の神にしか適用できないものでした。訂正します。
水野さんも、まずあらかじめ「人間の正論を覆す」趣味を持つ、ある特殊な性格をもつ神像を空想の中で勝手に作り上げて、そして、それに似たものが実在するかもしれない、などと自問して、なにかご自分で心配しておられる(あるいは、他人を心配させて喜んでおられる?)のでしょうか。
ただしここからは反論ですが、人間の正論を覆す神というイメージは、わたしが「ある特殊な性格をもつ神像を空想の中で勝手に作り上げ」たものではなく、むしろ聖書が語る神の姿そのもののように思うのですが、どうでしょうか。人間の正論・常識を覆し、予期せぬ仕方で物事を執り行なうのは、聖書の神の常套手段だと思います。もちろん、そういう神像がすでに聖書筆者たちの空想の産物である可能性もあるわけですが、結局のところ、現時点でわたしや佐倉さんが聖書の神の存在を肯定も否定もできていない以上、前述のわたしの主張(2)は、聖書の神について考える場合に限り正しいように思われます。
別にわたしはこの考えにより、自分自身心配してもいないし、まして、他人を心配させて喜んでいるのでもありません。心配しようがしまいが、以前にも述べましたように、「人間はただ有限の人間的見地で考えていくしかない、それ以上でもそれ以下でもない存在」(2000年4月4日)だと思うからです。
聖書という書物の構造上、有限な人間がそれを否定するのは簡単なことではありません。その意味で『聖書の間違い』のサイトはとても大きな役割を担うものとして評価しています。ただし、聖書に致命的な欠陥が見つかり、聖書の神は古代イスラエル人の空想の産物だった、として聖書の神をはっきり否定できない現段階においては、「すべての聖書批判は究極的に正しいかどうかは分からない」とせざるをえない、それが、有限な人間が聖書の神という超人的存在と対峙するにあたってとらざるをえない態度、つまり、人間の思考的限界だと思う次第です。
以上です。ご感想などあれば、よろしくお願いします。
00年6月10日
(1)「神の存在する可能性を無視すべきではない」と「神の存在する可能性は否定できない」
まとめますと、わたしは、聖書の神の存在を肯定も否定もできないとする立場から聖書の真偽について考える人々にはみな共通に、聖書を吟味批判する際に聖書の神の存在する可能性を無視すべきではない、という制限が生じるはずだ、との考えを今でも変えていません。聖書の神の存在を肯定も否定もできないとする立場から聖書の真偽について考える以上、これは必然的に発生する「制限」であり、聖書の神の存在する可能性を無視しないのも可能だし、無視するのも可能というような、「問題の捉え方の違い」などの余地を残すものではない、と思います。
わたしには、まだ言われていることがよく理解できません。価値観の押し付けのようにも思えますし、単なる蛇足に過ぎないようにも思えます。「無知だから、神が存在するともしないとも断定できない」という事実認識から、どのようにして、「神の存在する可能性を無視すべきではない」という行動規範(価値観の押し付け?)へ飛躍できるのか、また、もしそれが行動規範ではないとしたら、「無知だから、神が存在するともしないとも断定できない」という事実認識とどこが違うのか(蛇足?)、よくわからないのです。
(2)神像
人間の正論を覆す神というイメージは、わたしが「ある特殊な性格をもつ神像を空想の中で勝手に作り上げ」たものではなく、むしろ聖書が語る神の姿そのもののように思うのですが、どうでしょうか。
「聖書が語る神の姿」であろうと、水野さんのオリジナルの神像であろうと、みんな同じことです。人は、神を知らない限り、水野さんであろうと、わたしであろうと、聖書を書いた人々であろうと、誰であろうと、神について語るとき、心の中で勝手に作り上げた神像について語っているわけですから。また、たとえ、聖書を書いた人々は、わたしたちと違って、神を知っていたと想定しても、わたしたちが神を知っているのではない限り、わたしたちはそのこと(聖書を書いた人々は神を知っていたかどうか)を知ることはできないわけですから、その想定もわたしたちの空想でしかありません。
したがって、水野さんが神を知っておられるのならともかく、そうでなければ、「聖書が語る神の姿」が本当に実在する神の姿かどうかはご存じないわけですから、「聖書が語る神」を実在の神として水野さんが語られるとき、それは水野さんが空想の中で勝手に作り上げた神像となるでしょう。ただそれは水野さんのオリジナルの神像ではないというだけです。(もちろん、水野さんの神像はかなりオリジナルで、「聖書が語る神の姿」とはまったく別である、という方が正確かも知れませんが。)
(3)「すべての聖書批判は究極的に正しいかどうかは分からない」
「究極的に正しいかどうか」などと問うことは、特殊な性格(唯一性、全知性、等)を持たされた神の存在を前提にすることです。だから、「究極的に正しいかどうか」について語ることはそういう神について語ることです。しかし、わたしのように神をまったく知らない者が神についてしゃべることは、神の神像を勝手に心の中に造り上げること以外の何ものでもありません。
わたしは、神の神像を勝手に心の中に造り上げることは止めました。本サイトにおける「聖書の間違い」でも、わたしは「究極的に正しいかどうか」などについて語るものではありません。
人間の知識は絶対的ではありませんから、確実だと思っていたものが実は誤っていた、ということにもなり得ます。したがって、前提にしていた知識の方が誤っていて、聖書の記述の方が正しかった、という事態も可能です。しかしながら、持っている知識を正しいと判断している間は、その知識と明らかに一致しない記述がある場合、たとえそれが聖書の記述であっても、それは間違いであると判断を下さねばなりません。そうでなければ自己欺瞞に陥ってしまうからです。(佐倉哲、「はじめに:何を根拠に間違いを判断するか」より)
神を知るようになるとき、わたしは神について語ることができるでしょう。そのとき、「究極的に正しいかどうか」という問いがわたしにとって意味を持つことでしょう。
おたより、ありがとうございました。