はじめましてN.K.と申します。 初期仏教を勉強していまして、テーラワーダ協会のリンク集から貴殿のHPに辿り着きました。 大変根源的な所から追求されており、今後じっくり勉強させていただきたいと思っております。 全部読めば何処かに答があると思うのですが、とりあえず正解を早く知りたいのでメールでお尋ねさせていただきます。

真理と論理、および真理の根拠(1)の中です。

真偽を判定するのに2方法があるとされています。
1.事実に基ずく
2.論理的に推論する

[また、]
前提1 すべてのフランス人はヨーロッパ人である。
前提2 橋本龍太郎は日本人である。
結論  それ故、ビル・クリントンはアメリカ人である。
という推論は誤っています。その前提となっている「すべてのフランス人はヨーロッパ人である」や「橋本龍太郎は日本人である」も、またその結論となっている「ビル・クリントンはアメリカ人である」も、すべて真であるにもかかわらず、正しい推論とは言えません。”
[と、]上記のようにありましたが、この前提が真であるのはどうやって判断するのでしょうか。 1と、2から導かれる言明ということになりますか。 それとも “科学的実験などと違って、「主もなく客もない」という判断が真理ではなく、たんなる個人的な思い込みにすぎない、と言えるのは、それが公共的・客観的ではないからです。” とありましたが「公共的・客観的」で判断するのでしょうか。

御教示いただければ幸いです。

前提の真偽判定法を不躾ながら質問したN.K.です。

後の方を読ませていただいて、“無知空間に浮かぶ「知球」”というユニークな表現がありました。 これからすると「真」は本当に「真」なのかは根源的になど証明できない。 誰からも反論されないような内容ならとりあえずそれは「真」としておく、こんな認識でよろしいでしょうか。

(1)論理

前提が真であるのはどうやって判断するのでしょうか。
前提から結論を導出するという論理的作業においては、その前提や結論における言明内容が真(true)であるかどうかを吟味するのではなく、「もし前提が真なら結論も真である」という推論が妥当(valid)かどうかを吟味することです。つまり、「前提を真と仮定したら、必然的にその結論が導出される」という主張の妥当性の吟味です。したがって、そこでは、前提の言明が真であると判断される必要はありません

実際、しばしば、ある言明が誤謬であることを証明するために、それを前提にして(真と仮定して)矛盾した結論を導きだす、という推論作業がなされます。矛盾した結果が生まれるのだからその前提はあやまりである、という証明方法です。いわゆる帰謬法と言われるきわめて有効な論理的・数学的手法です。つまり、論理的推論とは、ある言明を仮に真としたらどんな結果が生まれるかを調べる作業であり、その仮に真とされた言明が前提です。

(2)知識

誰からも反論されないような内容ならとりあえずそれは「真」としておく、こんな認識でよろしいでしょうか。
知識についてのわたしの考えが「とりあえず真とされているもの」というのはそのとおりです。知識はわたしたちの経験や能力の限界によって必然的に限定的であり、しかも、わたしたちの経験や能力の可能性の限界も分からないため、知識はいつでも覆されたり変更される可能性を秘めたものだからです。

しかし、「誰からも反論されないような内容なら...『真』としておく」というようなことは考えていません。「誰からも反論されないような内容」だからといって、それだけで知識であると言えるかどうかは疑わしく、反論者がいるという理由だけで、ある言明が真ではなくなる、というのもおかしい気がします。