鈴木といいます。
大変面白いHPですね。
さて、「聖書の間違い」−「アビアタルとアヒメレクを取り違えたマルコ」につ いて、次のロバートソンの Word Pictures のコメントをご紹介します。 ギリシャ語はアルファベットに文字化けしていますが、アルファはA、ベータは Bとなりますので推測してください。 BibleWorks に付録の Robertson's Word Picturres よりカットアンドペースト しました。 ちょっと古く一般向きですが、聖書研究によいヒントを与えてくれます。
When Abiathar was high priest (epi Abiaqar arcierewj). Neat Greek idiom, in the time of Abiathar as high priest. There was confusion in the Massoretic text and in the LXX about the difference between Ahimelech (Abimelech) and Abiathar (2Sa 8:17), Ahimelech's son and successor (1Sa 21:2; 22:20). Apparently Ahimelech, not Abiathar was high priest at this time. It is possible that both father and son bore both names (1Sa 22:20; 2Sa 8:17; 1Ch 18:16), Abiathar mentioned though both involved. Epi may so mean in the passage about Abiathar. Or we may leave it unexplained.ここでは、七十人訳聖書(LXX)においてすでに両者が混同されていた。 あるいは、子と父が同じ名前で呼ばれる可能性が指摘されています。
新訳聖書の背景には当時の旧約聖書(タナック)の理解があります。 新訳聖書は日常の場を起点とし、旧約聖書のいくつかのバージョンを許容してい ます。 当時にはアビアタルとアヒメレクについて区別していなかった可能性が無いと言 えません。 その場合は、むしろ当時の会話が正確に再現されていることになります。
さしたる根拠もなく「後世の加筆」とする書物があります。 しかし、この安息日の議論の背景には、祭司の安息日の刈り入れに関する重要な 論争があったと考えられます。 またそれを前提にこの聖書の個所の意味が鮮明になります。 神殿の祭儀に関する論争は、神殿崩壊の70年以降には意味をなさず、このマル コの個所が後世に創作さたと断定するのは早計だと思います。 神学論争だけが忠実に再現され、祭司の名前だけいい加減とは考えにくいからで す。
N.Suzuki 1997.11.5
なお、鈴木さんのご意見に関しては、次のご意見が投稿されています
「『さしたる根拠もなく後世の加筆とする』について」 狸さんより
確かに、「さしたる根拠もなく」後世の加筆とするのもどうかと思いますが、引用された同名説も根拠が希薄なような気もします。父と子が二つの名前を共有していた可能性がないとは限らない、という単なる消極的な憶測にすぎないのですから。しかも、父と子が同じ名前を、しかも二つ共有していたというのは、他に例もないようですし、少なくとも通常ではありません。常識的に考えても、なぜそんな混乱を招くようなことをするのかわかりません。したがって、同名説には無理があるような気がします。
アビアタルとアヒメレクの関係が混乱しているのは、アビアタルとアヒメレクの父子関係がサムエル記や歴代誌で逆転したりするからですが、ダビデが神殿の供え物を食べたときの祭司がアヒメレクであったという記述については、まったく混乱はありません。したがって、マルコの誤謬には弁明の余地がないと思われます。
サムエル記によれば、ダビデが神殿の供え物を食べたときの祭司はアヒメレクであったと記述されており、マルコによれば、そのときの祭司はアビアタルであったと記述しているので、そのまま、すなおに聖書を読めば、マルコがアビアタルとアヒメレクを取り違えた、と解釈するのが一番単純で無理のない解釈だと思います。しかも、マルコは旧約聖書引用に関してずぼらです。たとえば、1章2〜3節で、
預言者イザヤの書にこう書いてある。と記述していますが、実際に引用している前半部分「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」は、イザヤ書の引用ではなく、マラキ書(3:1)からの引用です。マルコはこのような「前科」を持っていますから、マルコがアビアタルとアヒメレクを取り違えても、ひとつも不思議はないと思われます。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
おたより、ありがとうございました。
97年12月1日
アビアタルとアヒメレクの関係が混乱しているのは、アビアタルとアヒメレクの父子関係がサムエル記や歴代誌で逆転したりするからですが、ダビデが神殿の供え物を食べたときの祭司がアヒメレクであったという記述については、まったく混乱はありません。したがって、マルコの誤謬には弁明の余地がないと思われます。「誤謬」はイエスが犯したのか、マルコが犯したのでしょうか、全く別の真実があるのか、これ以上はよく分かりません。しかし「混乱」のある人名に対し、あえて名指しで言うというのはただの「誤謬」であるのか、私は慎重です。慎重であるべきこと、また批評的に聖書を読む作業の難しさを、実はマルコ1:2〜3の件が示しています。
しかも、マルコは旧約聖書引用に関してずぼらです。たとえば、1章2〜3節で、預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」と記述していますが、実際に引用している前半部分「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」は、イザヤ書の引用ではなく、マラキ書(3:1)からの引用です。マルコはこのような「前科」を持っていますから、マルコがアビアタルとアヒメレクを取り違えても、ひとつも不思議はないと思われます。
自信をもって、この文を書かれたことだと思います。しかし、この説は事実とちょっと違うように思われます。
(1)引用の形式について
新約聖書での旧約聖書の引用には「ミドラーシュ(釈義)込みの引用」と言われるものがあります。一つの聖書の個所を説明するのに、説明を付けずに別の聖書を引用するという形式です。例えば、ローマ人への手紙3:10〜18の、
義人はいない。ひとりもいない。〜「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」は、あたかも旧約聖書一カ所からの引用のように書かれていますが、実は詩編14編、53編、5編、140編、10編、イザヤ59:7〜8、詩編36編が何の説明もなく引用されています。このような引用の方法が新約聖書にあります。
(2)預言者名について
ローマ人への手紙3:10〜18の例では、書名や預言者名に触れていないと、ご指摘になるかもしれません。マタイに次のような旧約聖書の引用があります。
27:9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。「預言者エレミヤを通して」と書かれているのにもかかわらず、エレミヤではなくゼカリヤ11:12〜1327:10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」
11:12 私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。が主に引用され、エレミヤ18:2,19:2,11,32:6〜9について解説されているらしいのです。11:13 主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。
これは、引用する書名について預言者全部を挙げない、解説されている方の預言者か、よく知られている方の名前で代表されていると思われます。
(3)マルコ3:2〜3について
前置きが長くなりましたが、マルコについて検証します。
前半はイザヤではなく「マラキ書(3:1)からの引用です」とのご指摘ですが、確かにマラキを念頭に置いての引用と思われますが、厳密に言いますとマラキの引用ではありません。これは、出エジプト記23:20の七十人訳聖書の正確な引用です。マラキ3:1はよく似ていますがちょっと違います。(出エジプト記 23:20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。)
1.GNS Mark1:2(マルコ1:2)マルコ3:1は、マラキにではなく、明らかに七十人訳出エジプト記23:20に一致します。後半のイザヤ書についても一カ所を除いて七十人訳に一致するのです。
Ιδου εγω αποστελλω τον αγγελον μου π ρο προσωπου σου2.LXT Exodus 23:20(七十人訳出エジプト記23:20)
ιδου εγω αποστελλω τον αγγελον μου π ρο προσωπου σου3.LXT Malakei 3:1(七十人訳マラキ3:1)
ιδου εγω εξαποστελλω τον αγγελον μου και επιβλεψεται οδον προ προσωπου μου
エジプト記23:20以降を見るとなぜこの個所が説明として引用されたのか分かります。
23:21 あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。これは「使い」に従うように警告をしている個所です。単に使者が道ならし をするのではないということです。23:22 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことご とく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろ う。
更に、マルコ1:3のイザヤ書の引用では一カ所だけが変えられています。
1.GNS Mark 1:3(マルコ1:3)του θεου ημων(「私たちの神の」)、 がマルコでは代名詞αυτου(彼の)になっています。ここで αυτου は Κυριοs(主:ヘブル語聖書では神名ヤハウェ)を指します。
φωνη βοωντοs εν τη ερημω, Ετοιμασατε την οδον Κυριου ευθειαs ποιειτε ταs τρι βουs αυτου
2.LXT Isaiah 40:3(七十人訳イザヤ書40:3)
φωνη βοωντοs εν τη ερημω ετοιμασατε την οδον κυριου ευθειαs ποιειτε ταs τρι βουs του θεου ημων
そのように「主(ヤハウェ)」を αυτου に変えてもイザヤ書では意味は変わりませんが、マルコの文脈ではある意味を持ちます。「使い」はバプテスマのヨハネ、イエスが旧約聖書の神であることを前提にし「主(ヤハウェ)」がイエスと解釈しているのです。
以上のように、マルコは「ミドラーシュ(釈義)込みの引用」をしている訳です。七十人訳が正確に引用できたのに、出エジプト記をイザヤ書と間違えたというのはありそうな事だとは思えません。
このような七十人訳の正確かつ明確な意図を持ったマルコの引用が「ずぼら」で有り得ましょうか?むしろ、緻密な構想による引用をしています。不合理と思われる記述に対し、直ちに「マルコが間違えた」と言い切るのは早急な結論のように思われます。
(註)マルコ1:3のイザヤ書の引用で αυτου は口語訳、新共同訳、新世 界訳などでは「その」と訳されています。英語の訳では、私の知る限りでは、ものみの塔の「王国行間訳」を含めみな his と訳しています。小文字の his にしているのは何か理由があるのでしょう。日本語の訳で「その」としてもなんとなく意味が通る気がしますが、何を指しているのか、そもそも旧約聖書のどの個所の引用かを考えれば「その」ではなく新改訳のように「主の」とすべきように思われます。
(1)マラキ書と出エジプト記
マルコ(1:2b)が、鈴木さんのご指摘のように、出エジプト記の七十人訳聖書の正確な引用であるにもかかわらず、なぜ多くの学者がそれをマラキ書(3:1)への言及と考える理由はなになのか、わたしにはよくわかりません。たとえば、Lindsey P. Pherigo (INTERPRETER'S ONE-VOLUME COMMENTARY, p.645)なども、あまり詳しい説明も与えないで、
[T]he first quotation seems to be a free version of Mal. 3:1 (although the first part of it is exactly like the from LXX version of Exod. 23:20)....などと言っています。
引用の最初の部分は、七十人訳の出エジプト記の23章20節と全く同じようであるようにみえるけれど、マラキ書3章1節を自由に書き換えたものであろう。
マルコがこの部分を洗礼ヨハネに関する予言として引用しているため、それを、明らかにカナン進入へ言及である出エジプト記(23:20)の引用とは考えにくいからでしょうか。もし、本当にマルコが、出エジプト記のこの部分を洗礼ヨハネに関する予言として引用したのなら、明らかにマルコは出エジプト記を誤解もしくは拡大解釈していることになるからです。そうなれば、マルコの間違いは二重になります。
(2)いずれにしても、マルコは間違っている
マルコがマラキ書を自由に書き換えて引用したのか、それとも、出エジプト記を引用したのか、あるいはまた、鈴木さんの言われるように、マラキ書を念頭に起きながら出エジプト記を引用したのか、わたしにはわかりませんが、マルコの間違いは、それを、
予言者イザヤの書にこう書いてある。(1:2a)と言ったことにあります。マタイ(11:10)もルカ(7:27)も、マルコがこの点で間違っていると判断したから、彼らの福音書から予言者イザヤへの言及を脱落させたのではないでしょうか。
(3)マルコだけではない
新約聖書の他の部分でも(たとえば、マタイ27:9-10 などにおいて)、マルコと同じように、旧約聖書引用はずぼらで不正確であることあげて、それが新約聖書のやり方だから、マルコは間違っているとは言えない、という、鈴木さんの論理は理解しかねます。ようするに、新約聖書の旧約聖書引用は、マルコだけでなく、マタイも不正確であり、ますます、信用できないものである、ということなのではないでしょうか。(なお、マタイと使徒行伝におけるユダの死の予言としての旧約聖書引用に関してはすでに、「裏切り者ユダの死」で言及していますので、そちらも参照してください。)