佐倉さん、はじめまして。

ファンダメンタリストの両親の元で育ったものです。両親を見る限りはキリスト教の信仰を持っていない人よりも誠実で真面目な方だと思っています。もちろんそれを無理して偽善的にやっているようには思えません。どんなに取り繕っても家族といっしょにいる時ではぼろが出てしまうでしょうから。なにかクリスチャンのなかで佐倉さんにののしりの言葉をかけている人がいましたが、とんでもないことだと思います。

キリスト教というのは堅苦しくて、たばこや婚前の性交渉を禁じたりだとかで、なかなかそういう点は受けいれらないのですが、まあそういう両親のもとで育ったせいか、キリスト教には好意をもっています。なので一応キリスト教を擁護する形で書かせていただきたいと思います。

そんなことはどうでもいいのですが。99年の9月15日Makoto Yamayasanの意見に対して報告があやしいというのがありますが、実は2、3年前に父がそのアナなんだかが日本に来たときの集会に行って、祈ってもらったそうです。なんでも彼は近視のために祈ることがあるそうで、父は手を目に置くようにいわれて、そのとおりにしたそうです。そしたら、突然、目の玉がぐるぐる動き出して、目を開いたと時には近視が治っていたそうです。次の日から、おそらく30年ぐらいかけていた眼鏡をかけなくなりました。それで、今では60歳近くですが、老眼鏡もいらくなったとかいいだしました。でも、どうやら嘘をついているわけではなようです。昨年に車の教習所に通いはじめて、眼鏡無しで無事免許を取りました。僕の母は昔から目が良いのですが、老眼鏡を使っています。父の話によるとこのようはことはめづらしくないそうです。どおりでファンダメンタリストの人たちが他人に信仰を強要するのはこういう理由から来ているのかもしれません。しかし、祈ったすべての人が近視が治ったわけではないようですから、やはり人間には神は不条理に思えるようなことでもする場合もあるのかもしれませんね。

まあこのようなことを目の当たりして、真剣に聖書を勉強して、教会にも毎週通おうかなとこの2年間ぐらい悩んでいたところに佐倉さんのページを偶然みつけ、やはりキリスト教は偽者だとか、一瞬思ったのですがやはり父に起こったことがどうも心にひっかかっていて、もしかしたら聖書に書いてあることは本当なんではという気もします。

大学に入ってから盛んに創価学会の友達に勧誘されるようになりました。で、一応両親がキリスト教だからというような断りをすると、創価学会では奇跡がおこるんだとかいいだして、友達のひとりが折れてた骨が祈ったらすぐにくっつついたとか言い出して、まあ父の場合と違って、そう言ってるだけなので佐倉さんの言うとおり思い込みなのではと思っていますが、もしかしたら他の宗教でもそういうことがあるのではとも思っています。やはりそうなると人間にはできないようなことをできる存在というのはやはりあるのではないかと思います。佐倉さんが聖書の記述の矛盾をつくうえで使っている現代科学はおそらくすばらしいものでしょうが、それでさえもわからないことというのはいっぱいあるものです。佐倉さんは本当に賢い方だと思いますが、何か自分は何でも知ってるんだというのがすごい感じられて、きっとプライベートで知り合っても友達にはなれないタイプだなと思いました。というか佐倉さんのような賢い方は僕のような人間を相手にはしないでしょうが。20歳を過ぎて旧約聖書なんかを気の向いたときに読んでみても、チンプンカンプンですから。

ttn13w3091さんの「人間の精密さを考えると創造主がいるとしか考えられない。みたいな意見がありましたが、こんな説得力、論理性のないことをいくら言われても私には伝わりません、分かりません。」という意見こそ僕はわかりません。つまり統計学的にいって、神というかこの宇宙や地球をつくった存在を説明できるというのは論理性のないことなんでしょうか。三才の子どもで理解できそうです。それが聖書の神かはまた別の次元の問題です。だから、神というかそのような存在はいるのではないかと僕は思っているわけです。おそらくttn13w3091さんはどういう理由かはわかりませんがその存在さえを認めることにさえ不都合があるのでしょうか? 佐倉さんの意見によると、キリスト教徒が虐殺を行ってきたそうですが、確かにそのとおりだと思います。ただ、そのキリスト教徒は聖書を盾に自分たちの行動を正当化してきたのか、それとも神が命じてそれをおこなってきたのかは、また別次元の問題だと思うのですが。特にその頃は政治が宗教を利用していた時代だったのではと思います。

なにか佐倉さんがクリスチャンの全部がいかにもそういう狂暴さを持っているというのを植え付けようとしているように感じ、少し恐怖を覚えます、なにかクリスチャンに対する憎悪というか、なにか後筋が冷たくなるようなものを感じました。というのも、キリスト教徒やユダヤ教徒ほど迫害に苦しんできた人たちもいないというのもまた事実だからです。キリスト教がローマで国教と認められるまで、キリスト教徒は迫害の対象でした。そしてキリストの弟子も黙示録を書いたヨハネを残して全部殉教したというのを聞いたことがあります。(そうなるとキリストの弟子は自分たちのつまらない嘘のために拷問をうけ迫害に甘んじ、殺されたことになります。)日本でも豊臣秀吉と徳永家康の時代に同じくキリスト教徒への迫害があり何万という人が死にました。僕がおそれているのは佐倉さんたちのような極端な反キリスト教の方々が何かあったときに僕の両親のような善良な一市民を迫害するのではないかということです。そういう場合は僕は両親の側にもちろんつきます。まあ話が極端ですが、 佐倉さんのような方たちがキリスト教徒を殺してきたんでしょうか?

今の僕の状態は、キリスト教を信じるが80%で、残りの20%は、何かしら神のような絶対的な存在がいるがそれは必ずしも聖書の神ではないのではないかという感じです。でも、キリスト教は信者を規則でがんじがらめにするし、自分の人生だからやはり自分のやりたいことをやりたいですよね?つまり今はキリスト教を完全に信じることも捨て切ることもできない状態です。

もし、父のことでお疑いでしたら電話で話すこともできますし。写真を見せることもできますし、いっしょに視力を測りにいくこともできますが。どちらが本当なんでしょう?僕にはわかりません。

どうお考えですか。何かアドバイスをください。

1.奇跡は神の存在を証明するの?

実は2、3年前に父がそのアナなんだかが日本に来たときの集会に行って、祈ってもらったそうです。なんでも彼は近視のために祈ることがあるそうで、父は手を目に置くようにいわれて、そのとおりにしたそうです。そしたら、突然、目の玉がぐるぐる動き出して、目を開いたと時には近視が治っていたそうです・・・。創価学会では奇跡がおこるんだとかいいだして、友達のひとりが折れてた骨が祈ったらすぐにくっつついたとか・・・。もし、父のことでお疑いでしたら電話で話すこともできますし。写真を見せることもできますし、いっしょに視力を測りにいくこともできますが。どちらが本当なんでしょう?

わたしは、本サイトでなんども繰り返していますように、病気直しぐらいの奇跡はありうると考えています。病気直しであろとどんな奇跡であろうと、神秘的な力なしに可能であれば、そんなことによって、神の存在を証明することはできません。奇跡についてのわたしの見解は、奇跡について質問に応えた「FKさんへ 2001年5月18日」を参照してください。

それよりも、もし神がその超越的な力でもって人間世界に介入することができるなら、どうして、阪神大震災のとき、何の罪もない子供たちをすくわないのでしょう。なんで、神様は、近視を治すぐらいのことしかできないの、と信心深いお父さんに聞いてみてください。


2.統計学的に神の存在を説明

つまり統計学的にいって、神というかこの宇宙や地球をつくった存在を説明できるというのは論理性のないことなんでしょうか。三才の子どもで理解できそうです。
それでは、三才の子どもが理解できるように、統計学的に神の存在を説明してください。とても楽しみです。


3.わたしは「自分は何でも知ってるんだ」と思っている?

佐倉さんは本当に賢い方だと思いますが、何か自分は何でも知ってるんだというのがすごい感じられて・・・
わたしは賢くもないし、賢いなどとも全然思っていません。おそらく、わたしがしばしば断定的な言い方をするので、そのように感じられているのでしょう。わたしの断定的な言い方は梅原猛の影響です。
AかBか、断定することは勇気のいることである。そこに自分を賭けねばならない。もとより、人は断定においてあくまでも慎重でなければならない。知性とは、断定の軽率を戒める精神の能力である。しかし、人間がものを書くということは、やはり一つの賭けなのである。Aを取るか、Bを取るか、そこでは一つの決定が必要なのである。決定する勇気のない人間たちが「ではなかろうか」とか、「とも考えられるのではなかろうか」というような文章を書き、おのれの責任をまぬがれようとする。

梅原猛、『哲学する心』

また、わたしは、聖書を書いた人々(マタイやマルコやヨハネやパウロさんなど)や聖書に書かれている人々(旧約の預言者たちやナザレ村の大工さん)を、わたしとおなじ人間だと思っており、かれらの意見に対しても、間違っていると思われることは「間違っている」とはっきり言うのに何のわだかまりもありません。人間はだれでも多くのことについて無知でありしばしば間違うものだからです。同じ人間のかれらが例外であるわけがありません。

また、わたしは自分が間違うことにまったく恐れがありません。わたしは間違うことに恐れがない --人間なら間違うのが当然だと思っている-- ので、わたしは、自分が正しいと思っている(しかし間違っているかもしれないと思っている)ことを、なんの恐れもなく、図々しく、言いたいことをズケズケと主張することができる、というだけのことに過ぎません。

「自分は何でも知ってるんだ」なんて意識では全然ありません。その逆です。


4.人格自慢

両親を見る限りはキリスト教の信仰を持っていない人よりも誠実で真面目な方だと思っています。
クリスチャンは自分たちの人格を自慢するのが大好きです。「わたしたちは、こんなに立派な人格をしています。わたしたちの人格が素晴らしいのはキリスト教の教えを信じているからです」、というわけです。


5.わたしは悪魔?

なにか佐倉さんがクリスチャンの全部がいかにもそういう狂暴さを持っているというのを植え付けようとしているように感じ、少し恐怖を覚えます、なにかクリスチャンに対する憎悪というか、なにか後筋が冷たくなるようなものを感じました。・・・僕がおそれているのは佐倉さんたちのような極端な反キリスト教の方々が何かあったときに僕の両親のような善良な一市民を迫害するのではないかということです。そういう場合は僕は両親の側にもちろんつきます。まあ話が極端ですが、 佐倉さんのような方たちがキリスト教徒を殺してきたんでしょうか?
何だか、すごいことになってきました。わたしは悪魔?(^^)

信仰の自由に関するわたしの立場は「オウム信者と住民」で述べています。わたしにとってはきわめて重要な問題です。

わたしには「クリスチャンに対する憎悪」など全然ありません。憎しみを持つほどクリスチャンはわたしにとって興味のある対象ではありません。したがって、「クリスチャンの全部がいかにもそういう狂暴さを持っているというのを植え付けようとしている」などというのはNAKAさんの被害妄想です。そんなくだらないことに自分の大切な生活の時間を費やすほど、わたしはクリスチャンの存在意義を感じていません。

わたしが、たまに、クリスチャンの歴史を批判することがあるのは、クリスチャンも他の人間とどこも変わるところがないことを指摘するためです。なぜ、こんな当たり前のことを、わざわざ言わなければならないかといえば、相も変らず、NAKAさんのように、クリスチャンの人格は非クリスチャンの人格より優れているという宣伝を繰り返すクリスチャンが後を立たないからです。わたしはその宣伝が嘘であるという単純な事実を指摘しているだけです。クリスチャンの歴史はその宣伝が嘘であることの豊富な証拠です。

わたしの立場を根本的に誤解しておられますようなので、簡単に説明しておきます。わたしは、クリスチャンに興味はありません。ましてや「キリスト教撲滅運動」など論外です。わたしの興味の対象は「聖書は神の言葉であるから、いかなる間違いもない」という特殊な考えです。人間(の言葉を)を神格化しているからです。「自分は神の意志を知っていて、神の言葉を述べているんだ」、などという人の言葉は、オウムや聖書の宗教殺人の例に見られるように、詳しく吟味する必要があると思われるのです。