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言の葉

(16)


論争は危険な仕事なのである。AかBか、断定することは勇気のいることである。そこに自分を賭けねばならない。もとより、人は断定においてあくまでも慎重でなければならない。知性とは、断定の軽率を戒める精神の能力である。しかし、人間がものを書くということは、やはり一つの賭けなのである。Aを取るか、Bを取るか、そこでは一つの決定が必要なのである。決定する勇気のない人間たちが「ではなかろうか」とか、「とも考えられるのではなかろうか」というような文章を書き、おのれの責任をまぬがれようとする。

私は論争の精神をニーチェから学んだ。ニーチェによれば論争は、優勢な相手に仕掛けなければならぬ、という。勝ち誇っている相手、しかも、その相手が、ある文化の退廃の兆候を示すとき、そのときに、退廃の象徴としての個人に対して攻撃を加えねばならぬという。しかも、そこにはいっさいの個人的悪意怨根をまじえてはならないのみか、味方の助けをだれ一人頼りにしては、いけないというのである。論争は危険な仕事なのである。おのれ一人が、未知の荒野で恐怖におののく勇気なくして論争すべきではない。

私の友人で山田宗睦氏が「危険な思想家」という本で、民主主義を否定する思想家をなで切ったとき、人は彼の知性の不足を責めた。しかし私は彼に真の勇気が不足しているのを悲しんだ。丸山真男、久野収、日高六郎氏などを、どうして彼はこんなに頼りにするのであろう。真理以外に、おのれが命を賭ける真理以外に、頼りにすべきものがあるとでも言うのであろうか。

--- 梅原猛、『哲学する心』 ---