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00年9月29日
佐倉 様
本題と外れるかもしれませんが、創世記の記述について疑問がありますので、メールさせて頂きました。
それは、創世記1:16-19のところですが、『神は二つの大きな光るものと星を造り、大き な方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼 と夜を治めさせ・・・』ここの『二つの大きな光るもの』というのは、太陽と月のことと思います。『大きな方に昼を・・・、小さな方に夜を・・・』ということは、大きな方が太陽で、小さな方が月を示していると思われます。
現代では、天文学の発達により、太陽の方が月より大きいということは常識となっています。しかし、皆既日食という現象が示す通り、地球から見ると、太陽と月の大きさは一緒のはずです。天文学も発達しておらず、地球上から観察する手段しかないと考えられる昔に、なぜ、太陽が月よりも大きいということが分かったのでしょうか。とても疑問です。
私は、だから聖書は神の言葉なのだというつもりありません。やはり聖書は人間の手で作られたものと思っております。だから、なぜ、月より太陽の方が大きいと分かったのかとても疑問なのです。
ぜひ、佐倉さんのご意見をお願いします。
大阪府 皆葉
saba@hh.iij4u.ne.jp
00年10月21日
しかし、皆既日食という現象が示す通り、地球から見ると、太陽と月の大きさは一緒のはずです。十円硬貨を手に持って月や太陽にむけてかざすと、月や太陽は十円硬貨の後ろに隠れてしまいます。ということは、その論理に従えば、十円硬貨は月や太陽の「大きさと一緒のはず」、ということになるでしょう。
古代人の知識を過小評価していませんか。
旧約聖書は多数の文書の寄せ集めです。皆葉さんが引用しておられる創世記の一章の創造物語は、トーラー(律法 -- 旧約聖書の中心的書物集である五書)の構成順序でいえば一番最初に位置していますが、著作年代順でいえば、トーラーの中でももっとも後代に付け加えられた新しい部分(「祭司資料」)です。この部分は、数千年にわたるメソポタミアやエジプト文明の全盛期がほぼ終わろうとしていた頃に書かれた、最近(6〜5世紀ごろ)の記述です。そのころアテネではすでにソロンの改革によって民主政治が始まろうとしており、ターレス(前624〜547)のような科学者も出現しています。
聖書を読めば一目瞭然ですが、その知識は古代メソポタミア(バビロニア)やエジプト文明を背景にしています。そして、文字を発明し、数学や建築や天文学を発達させ、文学を書き、芸術を競い、高度な都市文明を築いたメソポタミアやエジプト文明が、「太陽が月よりも大きい」ことを知っていただろうぐらいのことは不思議でも何でもありません。
たとえば、古代メソポタミアやエジプトの天文学を土台にした暦は、聖書が書かれるより三千年以上も前から使われているのです。一日を24時間に分け、一時間を60に分ける方法も、古代エジプトで始まりました。
とくに、メソポタミア(バビロニア)における天体観測の記録は膨大なものであったようです。西暦前7世紀には、長年にわたる日月食の観察の記録から、バビロニアでは、食が約19年と11日でくり返すことが発見されていますが、それから約1〜2世紀後、バビロニアのネブカドネザルにエルサレムを滅ぼされ、バビロニアに幽閉されたユダヤ人たちによって聖書が編纂されたのです。ご指摘の創世記の天体の大きさに関する記述は、当時の先進国バビロニアの知識を反映していると考えてよいと思います。
おたより、ありがとうございました。