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00年9月29日
返答ありがとうございました。nakaです。
わたしの表現の仕方が悪かったのですが、厳密には、"ローマ帝国に認めさせるほどの勢力」が正しかったかもしれません。ですから、それ以降のことについては、ほとんど同じ意見です。
ですが、私が中心的に聞きたかったのは、奇跡の記事についてです。
私は、使徒行伝のペンテコステ以降や、イエスの明らかに一般的な枠を超える奇跡(ラザロややもめの息子の復活、ハンセン病の瞬間的癒し等)無しに、あの時代のような爆発的なキリスト教の広がりを見せ得無かったのでは?と、思っています。
どういう基準である記事は起こったと考えて、またある記事では起きなかったと考えるのか、と言うことです。
お忙しいと思いますが、返答いただけたら嬉しいです。
00年10月21日
(1)爆発的なキリスト教の広がりと奇跡の役割
私は、使徒行伝のペンテコステ以降や、イエスの明らかに一般的な枠を超える奇跡(ラザロややもめの息子の復活、ハンセン病の瞬間的癒し等)無しに、あの時代のような爆発的なキリスト教の広がりを見せ得無かったのでは?と、思っています。
まず、「爆発的なキリスト教の広がり」というのは史実なのでしょうか。たとえば、キリスト教がローマ帝国で公式に信仰をゆるされる(313年ミラノ勅令)までに280年以上もかかっています。それは、ほぼ、徳川吉宗が将軍になった時(1716年)から今日(2000年)までの期間の長さに相当します。「爆発的なキリスト教の広がり」という印象はキリスト教の宣伝(「神の働きによってキリスト教が広がった」)から生まれたものではないでしょうか。
ローマ帝国におけるキリスト教の浸透において、奇跡が取り立てて役に立ったという記録は、初期の教父たちの記録にもないようです。たとえば、ポール・ジョンソンの『キリスト教史』にも、まったくふれらていません。そもそも奇跡というのは、わたしたちのまわりの奇跡がそうであるように、物語やうわさとして語り伝えられるものにすぎないのであって、実際に起こるわけではないのですから、当然といえるでしょう。
(2)奇跡物語の信憑性
私が中心的に聞きたかったのは、奇跡の記事についてです。・・・どういう基準である記事は起こったと考えて、またある記事では起きなかったと考えるのか、と言うことです。
二千年の昔の事柄を確実に判断する方法はないだろうと思います。しかし、いくつかの奇跡物語、たとえばペテロが水の上を歩いたとか、死人を生き返らせたなどといった種類のものは、わたしたちの経験から、あり得ないだろうと言うことができます。また、軽い病気などは、前回も指摘しましたように、気持ちの持ちようで直るというわたしたちの経験から、あり得たかもしれないと言うことができます。
そもそも、イエスについての物語(福音書や使途行伝)はイエス死後の半世紀から一世紀後に書かれたものであって、たとえばルカが、「わたしたちに伝えられたとおりに、物語を書き連ねよう」と、述べているように、目撃者の証言ではなく、二代目三代目のクリスチャンが、先輩たちからの口承伝承をいろいろ集めて、それを書き留めたものにすぎません。(ルカの福音書1章1節)
しかも、
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためである(ヨハネの福音書20:31)
と、ヨハネ自身が告白するように、福音書は事実を語り伝えるために書かれたのではありません。オウムの信者が、かれらの教祖が空中浮遊している写真を配付して、かれらの教祖が特別の人間であることを人々に信じさせて人類を救いたいと思い込むのと、まったく同じ心理がここにあります。
このように、奇跡物語の信憑性を高いと考える理由は皆無であるのに比べ、その信憑性はむしろ低いと考える理由はたくさんあります。
(3)わたしが奇跡に興味を持たない理由
もし奇跡が科学的・合理的に説明できるなら、それは奇跡ではなく単なる自然現象であることになり、神の力の介入をもちだす必要は消えます。これでは、教祖を神の人と信じさせようとした奇跡物語の存在目的そのものに反することになります。奇跡が奇跡でなくなれば、「奇跡の理解」などいうことは無意味になります。
逆に、もし奇跡とは、その定義によって、科学的・合理的に説明できない現象であるとしたら、奇跡は原理的に理解不可能な事柄ということになってしまいます。そうなれば、奇跡を理解しようとする努力はまったく無意味だという結論になります。奇跡は、ただ信じるしかない、ということになります。
わたしが奇跡に興味を持たないのはこのような理由のためです。
おたより、ありがとうございました。