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00年9月3日
こんにちは佐倉さん。
かつて佐倉さんは神の声を聞いていたそうですが、私にはそのようなことは一度もありませんでした。それに、神が直接自分に語りかけるなんて、想像もしたことありません。それで、大真面目に「神の声を聞いている」という言葉をあざ笑うような発言をしてしまいました。申し訳ありません。その方々が、真剣にそう思っているのなら、他人が何か言うべきことでは無かったですね。
私の場合は、そういう方々と違い、常に神の存在を身近に感じています。物心ついた頃からでした。それで、気づいた時には、毎日神に、たぶん無意識のうちに語りかけていました。誰かに教えてもらったわけでは無いのです。
語りかけている・・・・というのも正確ではありません。以心伝心と言うか、私の思いのなかに感じるのです。
でも、不思議なことに、エホバの証人と研究をするようになってから、そうした「感じ」がすごく薄くなってゆきました。替わりに「悪魔」の存在をよく感じるようになったのです。私はそれを、神であるエホバの組織に巡り会えたので、組織の教えにしたがいなさいという暗黙の、私と神との了解だと勘違いしていたようです。
ところで、悪魔の存在の方がは強烈で、すぐ後ろにいる・・・とか、あ、ここに居る・・・というように、はっきりと存在を認識できます。見えないのですが、強く感じるのです。そんなことを言っても誰も信じませんから、黙っていました。(それでなくても家の裏が神社なので何を言われるか・・・・)
去年の6月。急に、それまでわずかながら感じていた、神の気配をまったく感じなくなりました。同時に、私はものみの塔は、実はとんでもない大ウソつきなんだ!と物凄い衝撃と共に、なぜか悟りました。
それから約1年。証人と断絶するまでの間、私の中にある神は消滅してしまっていました。(悪魔はしつこく私の前に現れるのですが・・・姿無き存在) 断絶を決意した時。「あれ?」と言う感じです。確かに神が「居る」のです。あ、戻ってきている!!!
悪魔の存在も、今はまったく感じません。
今思えば、エホバ神こそ悪魔だったのではないかと思うのです。だって研究を決める当日の朝から、悪魔の存在を感じるようになって、「なんか嫌な一日になりそうだな」と思っていたら、研究することになったのですから・・・・・。 1993年1月11日のことです。
と、これは私の経験です。そんなわけですが、教会に通っていた6年の間には悪魔の存在は全く感じなかったので、キリスト教がすべて同じとは言いませんが、いったいアレはなんだったのでしょう。
今は常に神の存在を強く感じています。これは私にしかわからないことですから、両親にも、主人にも、友人にも、兄弟にも、誰にも話したことはありません。あ、一度20才の時、ある友人に、「こんな不思議なことがよくあるんだよ。」となにかの拍子に話したら、それは「背後霊だ」と言うのです。私はそうは思わないのです。物心ついた頃から「神だ」と感じています。でも、これからも誰にも言わないつもりです。話しても、この「感じ」や、実際に神の成し遂げた事は誰にも理解してはもらえませんからね。
なぜここにかいたかというと、佐倉さんの探しておられる事の参考になればと思いました。
by.あややん
00年9月29日
神の存在を身近に感じています。物心ついた頃からでした。
わたしたちは色や形を目という視覚器官を通して感じ分けることができます。堅さや冷たさなどを身体の触覚器官を通して感じ分けることができます。同様に、味は舌などの味覚器官を通して、臭いは鼻の臭覚器官を通して、音は耳の聴覚器官を通して、それぞれ感じ分けることができます。しかし、「存在」は感じることはありません。「存在」は感覚器官(体験)の対象ではなく、「或ものが有るか無いか」という判断(思い)の対象だからです。
そうすると、あややんが、ここで「存在を感じる」ということばで表現しようとされているのは、通常「感じる」という言葉が使われる感覚器官による体験のことではなく、「或るもの(神や悪魔)が有る」と判断する、ということであることが理解されます。たとえば、背後に誰かがいると思い込むことを、「背中に人の気配を感じる」などということがありますが、それと同類です。あややんも「神の気配」という表現をしていますね。
日本語では、同じ「感じる」という言葉を使っていても、このように、体験(視覚、触覚、味覚、臭覚、聴覚、および喜怒哀楽)と、判断(思い込み)の二つがあり、「存在を感じる」というのはあきらかに後者(判断)に属するということです。「私の思いのなかに感じる」とか「私の中にある神」という表現は、それが体験ではなく判断(思い込み)であることを示していると言えるでしょう。
「物心ついた頃」というのはいつごろのころかわかりませんが、「存在を感じる」というような抽象的な表現は、かなり大きくなってからでなければできないことですから、これは、こどものころのことを思いだして、あとからそれを説明した表現に違いありません。これは、だれでも同じことで、子供のころのことを、現在的解釈という色付けをしないで、純粋な形で取り出すことは不可能です。
気づいた時には、毎日神に、たぶん無意識のうちに語りかけていました。誰かに教えてもらったわけでは無いのです。
誰かから「神」について聞いているのでなければ、自分が語りかけている相手や「存在を感じている」当の対象が「神」である(ない)という判断は絶対にできません。それは論理的に不可能です。同じことは「悪魔」についても言えます。誰かから「神」と「悪魔」について聞いているのでなければ、「神」と「悪魔」を区別することはできません。したがって、「誰かに教えてもらったわけでは無い」のではなく、覚えておられないだけです。たとえば、「[悪魔の存在は]見えないのですが、強く感じるのです」といった判断を下すためには、悪魔は「見えない」はずの存在であることを、あややんは、すでに以前どこかから聞いているのでなければならないでしょう。
今は常に神の存在を強く感じています。これは私にしかわからないことですから、両親にも、主人にも、友人にも、兄弟にも、誰にも話したことはありません。・・・でも、これからも誰にも言わないつもりです。話しても、この「感じ」や、実際に神の成し遂げた事は誰にも理解してはもらえませんからね。
「存在を感じる」という、まるで感覚体験であるかのごとき表現を使われるので誤解されるのだと思います。客観的な事実でないもの(神や悪魔の存在)を、客観的な事実であるかのごとき表現(「感じる」)を使えば、誤解されるのは無理もありません。「存在」は感覚器官の対象(客観的な事実)ではなく、「あるかないか」の判断(思い込み)なのですから、もう少し、誤解の無いような表現を使われれば、理解してもらえると思います。たとえば、「わたしはこのごろ神が存在するんだと強く思うようになった」とか「わたしは神が存在しないと思ったことはない」といった具合に。「存在」は感じられるものではなく、「あるとかない」というふうに判断されるものですから、そのような表現の方が的確です。
おたより、ありがとうございました。