このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。
00年9月2日
福音書がイエスに関する事実を記述したものではなく、初期のクリスチャンの間で出回っていたさまざまなうわさをもとにしてつくられた神学的創作であることがわかります。義経伝説のように、死んだ英雄というものには、どこのくにでも、死後さまざまなおもしろい物語が付け加えられてゆくもののようです。(佐倉、「『二人の強盗』の矛盾」)
ある人が言いました。あの森は美しいですね。ある人は言いました。あの森の中の鳥は鳴き声がすごく綺麗よ。同じ森を見てもそれをどこで見たかによって説明が違います。ただし、二人とも同じ森を見たわけで後者はもっと正確、綿密に見たわけです。
確かにルカの福音書の他の福音書は十字架につけられた者たちも、イエスをののしったと書いてあります。これを見ると複数ですから、イエス様と一緒に十字架につけられた人が1人ではないことが分かります。また、イエス様と一緒に強盗が十字架につけられたことは事実です。
ただし、ルカは強盗の1人はイエス様をののしったが1人はそうではないとイエス様は罪がないといったし、自分は罪を犯して裁かれても当たり前だといったのです。ルカがなぜこの部分を他の福音書と比べて詳しく書いたか。考えたことがありますか。事実イエス様は十字架につけられながらも一人の魂を救ったのです。その人はイエス様の十字架を見てイエス様を知り、自分の罪を知り、裁きを知り、心には後悔する気持ちでいっぱいでした。そして、イエス様に哀れみを求めました。イエス様は彼に言いました。今日わたしと一緒に楽園にいると。
救いはもう一度いいますが自分の罪を悟るところから始まります。1人の人が救われるのも同じです。ルカは特にこの部分を大切だと分かったわけです。それでもっと詳しく書いたわけです。
以上です。
00年9月29日
確かにルカの福音書の他の福音書は十字架につけられた者たちも、イエスをののしったと書いてあります。これを見ると複数ですから、イエス様と一緒に十字架につけられた人が1人ではないことが分かります。また、イエス様と一緒に強盗が十字架につけられたことは事実です。ただし、ルカは強盗の1人はイエス様をののしったが1人はそうではないとイエス様は罪がないといったし、自分は罪を犯して裁かれても当たり前だといったのです。ルカがなぜこの部分を他の福音書と比べて詳しく書いたか。
マルコもマタイもルカも、イエスと一緒に処刑された強盗の数を、何人かわからない「複数」と言う表現ではなく、はっきりと、「二人」という表現を使ってその数を明記しています。
イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(マルコ)イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。(マタイ)
二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった。・・・犯罪人も、一人は右に一人左に、十字架につけた。(ルカ)
そして、マルコやマタイによると、イエスをののしった人々と一緒に、二人の強盗はどちらもイエスをののしります。
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。 (マルコ)一緒に十字架につけられていた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 (マタイ)
ところが、ルカの記述によると、一方の強盗が人々と一緒になってイエスをののしるのを見て、他方の強盗はそれをたしなめるのみならず、イエスと共に「楽園にいる」と言われます。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (ルカ)
つまり、マルコやマタイによると二人の強盗はどちらもイエスをののしりますが、ルカによるとその二人の強盗のうち一人だけがののしるけれど、もう一人の方はそれをたしなめるという矛盾が生じています。これは一方が他方より詳しく書いたというようなことではありません。もし、マルコやマタイの言うように、二人ともののしったのなら、ルカの記述は間違っていることになります。もし、ルカの言うように、一方はののしったが他方はたしなめたのなら、マルコやマタイは間違っていることになります。一方が成立すれば他方は必然的に成立せず、この両方の記述が同時に正しいことは不可能です。ゆえに、聖書には間違いがあることになります。
おたより、ありがとうございました。