非常に興味深いエッセイ集を御貴殿のホームページで読ませていただきました。全部ではありません。まだまだごく一部です。

御貴殿の聖書批判は、知的ゲーム、知的好奇心を満たしてくれるという意味で面白いと思いました。小生よりも聖書をかなり詳細に読んでいるなという感じです。もっとも、キリスト教にほとんど興味のない小生と比べられると、却って失礼かも知れません。御貴殿の聖書批判は、読んでいるときは面白いのですが、私のようにキリスト教を信じてない者にとっては、だからどうなのという疑問が出てきます。クリスチャンは聖書をいろいろと大事にしているようです。また、御貴殿は聖書が間違っているとおっしゃる。クリスチャンと思われる方からの反論も読みながら両者の論争を外野から見ると、知的ゲームとしては確かに面白い。でも、終われば忘れちゃう。残らない。「お疲れさん」という感じがします。

当方は仏教徒です。もっとも、世間で一般に仏教と言われている人からは、あいつの仏教は仏教じゃないと言われているかも知れません。小さなホームページを持っています。仏教エッセイを書いています。浄土通信といいます。浄土通信には、インターネット浄土通信〔URLhttp://www3.justnet.ne.jp/‾katasi-park/〕と葉書浄土通信とがあって、葉書浄土通信が先行しています。インターネット浄土通信は、葉書浄土通信の後を追いながら昔の葉書浄土通信の内容を再掲しています。スピードはインターネット浄土通信の方が早く、やがて葉書浄土通信に追いつきます。


99年1月18日

非常に興味深いエッセイ集を御貴殿のホームページで読ませていただきました。昨日、多少不躾なメールを送ったような感じがあります。intro.htmを読ませていただき、お心を打たれました。御貴殿と私とは宗教に対するアプローチの方法が違うようですが、それなりに響くものがあります。

創世記は誤りか。地球史、人類の起源史として創世記を読めば、多くの矛盾が出てきます。そんなのは私どもにしてみれば当然の話です。天地創造神話は、もともと幼児アダムの七歳までの、自我ができるまでの生育史でしょう。アダムというのはハビル家の始祖、神とはアダムの両親の実名、私などは聖書を単純にそう読んでいます。アダムの両親は、ハビル家が拡大したイスラエル民族を統括する軍神として、モーゼによって、軍事政策的に、強制的・脅迫的、火事場泥棒的に大急ぎで祀られた。そういう存在でしょう。文献学的な理論的な根拠は浄土通信を読んでください。

聖書といっても、他の本を読む場合と態度を変えなくてはいけないものじゃない。聖書には当然作者がいるわけです。作者は、一体どういう理念で一定の主張をしているのか、その辺を考えながら読まなければいけない。作者の気持ちを察しながら読んでいくというのは、書物一般の読み方で、聖書の場合でも当然当てはまるものと思います。

聖書は軍政の書でしょう。いかにして戦争に勝利するか。軍略の本ですよ。汝人を殺すなかれといっても、殺してはいけない相手はイスラエル民族同士のことを言っている訳です。イスラエル民族以外は、神が作ったものではないんです。だからイスラエル民族以外は悪魔の民です。悪魔の民だから、殺してもいいわけです。悪魔の民も殺してはいけないなんて、そんな馬鹿なことを言えば、どこに神様がいることになりますか。神様なんかいなくなっちゃうじゃないですか。

汝姦淫するなかれ。姦淫してはいけないのは、イスラエル民族同士の中での話でしょう。姦淫にふけっていたら軍政はむちゃくちゃになる。戦争に勝てないわけでしょう。十戒は、カナン攻撃にあたっての軍律、軍規、戦陣訓そのものであったわけでしょう。聖書は、砂漠の中のオアシスで国家運営を図るための、戦争の書、軍規の書だと思います。平和時の生活方法も書いてありますが、いったん緩急あれば武勇公に奉じる(教育勅語)、勇敢な兵士の準臨戦態勢の生活態度を理想として描いているものでしょう。戦争のための書という目的視点を外したら、およそ旧約聖書などは読めないんじゃないですか。

クリスチャンは聖書の読み方が間違ってると思いますよ。クリスチャンがどこで間違ってきたか。その分水嶺を探ることは面白いと思いますが、当方の負える荷では無いような気もします。ただ、今のクリスチャンの読み方で聖書を読めば躓く。私などは当たり前のような気もします。

宗教へのアプローチの方法は、小生とは違うようです。でも、御貴殿の検討は極めて精緻です。クリスチャンに警鐘を鳴らしたいという苦労は、非常に意味のあることと思います。


細かい点ではいろいろ同意できないところもありますが、聖書の神を本質的に「民族の王」「軍神」として捉えられておられる点は、わたしも同意いたします。たとえば、「作者より木村直之さんへ」などを参照してください。

「聖書の間違い」に関してのご感想は理解できます。これは、「聖書は神の言葉であり、いかなる誤謬も含まない」という主張そのものに、賛成するのであれ、また反対するのであれ、興味を持っている人でないと、とても真剣に読む気にはならないだろうと想像いたします。しかし、

わたしが、「聖書は神の言葉であり、いかなる誤謬も含まない」という主張にこだわっているのは、「はじめに」でも説明し ているように、この主張が「聖書に書かれているから真理である」という主張に他ならず、それはとりもなおさず、真理の主張が、知識を根拠にしてではなく、権威を根拠になされていることを意味しているからです。真理の主張が、知識ではなく、権威と信仰に依存してなされるとき、たとえば、殺人命令さえも簡単に正義となることが、林郁夫の手記「オウムと私」(『文芸春秋』七月号)によくうかがえます。ですから、真理の主張が権威に依存してなされるとき、たとえ、ばかばかしい主張と思っても、それをオープンな場所で吟味のまな板に載せることは、それほど意味のないことでもあるまいと思われるのです。

(「作者より渡辺比登志さんへ」)

浄土通信はこれからゆっくり読ませていただきます。