こんにちは

最近思ったことを書いてみます。

宗教って結局人間がつくったものですよね。キリスト教にしても神が直接つくった ものではない。それなのに人間が作った教義だとかをあたかも神から与えられたも のであるかのように守ることを信者に要求する。そして時には正義の名のもとに他 の宗教を弾圧するようなことをする。でも、殺すなかれ、とかいう教えもあるはず で、この場合キリスト教徒は教えを守るために教えを破っているということになり ませんか。こういう事を考えると、いったいキリスト教の目的って何なんだろう、 と考えてしまいます。

たとえ神が存在して人間を造ったとして、それで知恵の実を食べて地上に落とされ たとすると、神と人間はもう関係ないのではないでしょうか。もしキリスト教の目 的が楽園への復帰だとしたら、人間は罪を償い神に許しを請うために何千年も費や しているということになりますね。それで、もし楽園に帰れたとしても、帰れた人 はいいがその前に死んだ人は帰れた人たちの踏み台ということになります。僕が神 だったらそんな事は望まないし、もう親の手から離れたんだからそっちはそっちで うまくやれよ、という気分になると思う。神の深いお考えは人間には理解できない とか言ってないで少しは神の気持ちになって考えてみることも大事だと僕は思いま す。なんだか人間に利用されたばっかりで神がかわいそうに思えた。もしいたらの 話だが。

ダラダラと訳の分からないことを書いてしまいました。

聖書に描かれている神は、きわめて複雑な性質を与えられています。それは、聖書が実に長い期間(およそ1000年ほど)の間に、さまざまな時代のさまざまな人の手によって書かれ、また収集編集されたがゆえに、書いた人あるいは編集した人のさまざまな神観念がそこに反映しているからでしょう。その中で、もっともきわだった神の性質の一つは、「絶対王」としての神です。木村さんが感じておられる疑問は、この神の持つ「絶対王」としての性質に深く関連していると思われます。

聖書の神が「絶対王」としての性質を持つようになったのは、古代イスラエル人の住んでいた領域と深く係わっています。すなわち、彼らが、世界史の中でも最も早く強大な絶対的王政の文明を築き上げたメソポタミアとエジプトという二つの高度な文明の間に挟まれた狭い領域(パレスチナ)で、たびたびそれらの強大な王国に翻弄されて生きてきた、弱小民族であったことと深く係わっています。つまり、彼らの造り上げていった神の観念は、一方では、メソポタミアやエジプトの王をモデルとしていて、絶対的君主としての性格を持っており、他方では、メソポタミアやエジプトの王に対抗するため、彼らの王より強いイスラエルを守る最強の軍神としての性格を持っています。聖書の神ヤーウェの第一の特徴は、まず何よりもこの「軍神としてのイスラエルの王」なのです。聖書における「救い」とは、もともと、イスラエルにとっての軍事的救い(イスラエルを脅かす敵国に戦勝すること)を意味していました。たとえば、旧約聖書のなかで最も古い層に属すると言われる「デボラの歌」(士師記5章)は、戦勝の歌です。

イスラエルにおいて民が髪を伸ばし
進んで身を捧げるとき
ヤーウェをほめたたえよ。

諸々の王よ、聞け
君主らよ、耳を傾けよ。
わたしはヤーウェに向かって歌う。
イスラエルの神、ヤーウェに向かって
わたしは賛美の歌をうたう。

ヤーウェよ、あなたがセイルを出で立ち
エドムの野から進みゆかれるとき
地は震え
天もまた滴らせた。
雲が水を滴らせた。
山々は、シナイにいます神、ヤーウェの御前に
イスラエルの神、ヤーウェの御前に溶け去った。
……
王たちはやって来て、戦った。
カナンの王たちは戦った
メギドの流れのほとり、タナクで。
だが、銀を奪い取ることは出来なかった。
もろもろの星は天から戦いに加わり
その軌道から、シセラと戦った。
……
ヤーウェの御使いは言った。
「メロズを呪え、その住民を激しく呪え。
彼らはヤーウェを助けに来なかった。
勇士とともにヤーウェを助けに来なかった。」

女たちの中で最も祝福されるのは
カイン人へベルの妻ヤエル。
天幕にいる女たちの中で
最も祝福されるのは彼女。
水を求められて
ヤエルはミルクを与えた。
貴人にふさわしい器で凝乳を差し出した。
彼女は手を伸ばして釘を取り
職人の槌を右手に握り
シセラの頭に打ち込んで砕いた。
こめかみを打ち、指し貫いた。
彼女の足下に、シセラは
かがみ込み、倒れ、伏した。
彼女の足下に、彼は
かがみ込み、倒れた。
かがみ込み、そこに倒れて息絶えた。
……
このように、ヤーウェよ、あなたの敵がことごとく滅び、
ヤーウェを愛する者が日の出の勢いを得ますように。

キリスト教は、このようにもともと政治的軍事的な意味であった聖書の「救い」の意味をより精神的・霊的なものと意味転換したのですが、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)を否定せず、神の言葉として受け入れたが故に、やはり、軍神としての性格はそのまま受け継がれています。例えば、新約聖書の「ヨハネの黙示録」には次のようなキリストのイメージが預言としてつづられています。

すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義を持って裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国民の民をそれで打ち倒すのである。また、自らの鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。(ヨハネの黙示録19:11-16)
といった具合です。聖書の神のもたらす最終的救いが、「愛」と「赦し」を強調するキリスト教においてさえ、このようなイメージで語られるのは、聖書の神が古代メソポタミアとエジプトの王をモデルにして造り上げられた「絶対王」の性質を持っていて、救いとはもともと、軍事的勝利のことだった事実と伝統を、キリスト教も引きずっているからでしょう。このように、絶対的王としての神の性格は、当然ながら、その宗教の救いの性格にも影響しています。

もう一つ例をあげてみましょう。神がモーセを通して与えたという十戒です。仏教にも五戒というのがありますが、それと対比してみると、聖書の宗教の性格がより鮮明になります。

(1)おまえにはわたし以外の他の神々があったはならぬ。
(2)おまえは偶像を刻んではならぬ。
(3)おまえの神ヤーウェの名をみだりに唱えてはならぬ。
(4)安息日を憶えて、これを聖く保て。
(5)おまえの父母を敬え。
(6)殺してはならぬ。
(7)姦淫を犯してはならぬ。
(8)盗んではならぬ。
(9)隣人に対して偽証してはならぬ。
(10)隣人の家を貪ってはならぬ。
(中沢訳、出エジプト記20章より)
以上が、モーセの十戒です。次は仏教の五戒です。
(1)不殺生戒(生き物を殺さないこと)。
(2)不偸盗戒(盗まないこと)。
(3)不邪淫戒(姦淫をおかさぬこと)。
(4)不妄語戒(嘘をつかぬこと)。
(5)不飲酒戒(酒を飲まないこと)。
この二つを比較してみると、モーセの十戒においてきわだっているのは、仏教においては第一番目にあげられている「殺してはならぬ」という戒めが、十戒においては六番目というきわめて低いところに位置づけられていることです。モーセの十戒においてもっと重要な戒めはむしろ、神への忠誠なのです。第一の戒めも、第二、第三、第四の戒めも、すべて神への忠誠に関するものです。これは、言うまでもなく、聖書の神が絶対君主としての性格を与えられていることに由来しているのです。

したがって、例えば神が殺人を命令するとき、信者に要求されているものが何であるか、その答えは聖書に明白です。とくに「ヨシュア記」をみれば疑う余地がありません。聖書の神を「絶対王」として認める立場に立てば、神のための殺人は正義になるからです。この立場に立てば、神の意志が正義を決定するのであって、わたしたち人間が正義だと思っていることに神が従わなければならない、ということなどありえないからです。

木村さんや、多くの日本人がキリスト教のいくつかの性格に対して、一つの避けがたい距離感を感じるのは、このように、聖書の神が「絶対王」としての性質を与えられていることに由来する場合が多いのではないか、とわたしには思われるのです。又逆に、西欧人たちが、仏教や神道などの複数の宗教を平気で両立させている日本人の宗教心をまったく不可解に感じるのも、彼らの宗教の本質が「絶対王」としての神への忠誠にあるからだと思われます。客観的に見れば、日本人と西欧人の宗教観が違うだけですが、面白いことに、そのとき、西欧人が「なぜ我々はこのように感じるのか」と問うことができず、「なぜ日本人はこんなに変なのか」と、一様に考えてしまうのも、彼らが物事を相対的に考えることに不得手だからでしょう。西欧人は無意識的に「教えるのは我々であり、従うのは日本人である」と考えているからでしょう。それも、やはり、彼らの信じる宗教の神が「絶対君主」として君臨していることと決して無関係ではない、とわたしは思っています。