田川建三『イエスという男』の書評を丁寧にお読みくださり,ありがとうございました。ご返事にあるようないくつかの疑問は,ごもっともなことと思います。

いったいいかなる根拠をもって、田川氏はこの革命的主張をなされたのか。わたしは、ここに興味を引かれるのですが、渡辺さんの書評ではその点の解説があまり明確ではないように思われます。・・・とくに、史的イエスの復元は不可能である、という今世紀の神学に対するひとつの批判的結論は、イエスに関するこの書自身の一連の断定 --といささか矛盾するのではなかろうかとも思われるからです。・・・他の神学者も利用している同じ資料に対して、(田川氏が)なにか新しい解釈・分析を施された、ということだろうと思います。そうすると、その方法というものがどの点において、今までの方法よりすぐれているのか。書評を読みながら、わたしとしては、やはり、その辺のところがもっとも気になりもし、また少し物足りなさも感じました。
確かに私の書評ではこれらの点にほとんど触れていませんので,その意味では,「書評」を名乗る資格はないかもしれませんね。しかし,実を申しますと,あえて書かなかったのです。拙文の目的はこの本を一人でも多くの方に読んでいただくことだからです。あまり詳しく解説してしまったら,むしろ目的が達成されない「危険性」があります。 そして,実際に『イエスという男』を最後までお読みいただけば,きっと佐倉さんの疑問は,すべて解決されると思います。方法論については第1章の第4節にていねいに書かれていますが,くれぐれもそこまでで終わりにしないでください。

次の機会には,読後のご意見・ご感想をうかがえることを楽しみにしております。

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ところで,拙文をお読みいただくことをお願いした本来の理由は,拙文にも書きましたように,つぎのことを知っていただきたかったことです。

福音書はいずれも、イエスの死後(一部は生前から?)イエスの言動に関するさまざまな口伝伝承が次第に文書に定着し、おそらく同種のものが集められていくつかの言行録として存在していたものを、一人または数人の「著者」が収集し編纂したものである。古代の伝承の例に漏れず荒唐無稽な語り口が目立つし、福音書によって、またその写本によって同じ話の細部が食い違っていることも少なくない。・・・(福音書の)現存する資料はすべて、伝承の過程で教団内でのさまざまな神学的関心により大幅な改変を受けており、さらに最後に福音書にまとめられる段階でも、各福音書に固有の神学的理念に則った意図的な編集作業が一貫して加えられていることが明らかになったのである。具体的には、イエスの行動全体の地理的・時間的枠組みはもとより、イエスの言動をめぐる状況設定や発言の順序、さらにはイエスの発言の相当な部分が伝承と編集の各段階での付加、変更、創作であり、ほぼ確実に歴史的事実とみなしうるのはごく一部のイエスの発言に限られてしまう。こうして学問的客観的「イエス伝」の望みは完全に断たれたのだ。
要するに,福音書は「歴史書」でもイエスの「伝記」でもなく,初期キリスト教徒たちの「信仰の書」だということです。だから,佐倉さんがおやりになっているように,「マタイ」にはこう書いてあるが「マルコ」ではこうだ,とか,「マタイ」のある個所ではこういっているのに別の個所では違っている,というような,異同・不一致を見つける形の「聖書の間違い」探しは,「福音書」に関する限りは,そして少なくとも純粋に学問的にはあまり意味がないということです。そんな例は福音書の至る所に掃いて捨てるほどあって,「間違っていない」「食い違っていない」個所を探す方が難しいくらいだということを,他ならぬ福音書研究の専門家たちが認めてしまっているからです。 ただし,大多数の一般信者を動揺させることが目的なら,話は別です。いや,むしろ「福音書の異同・不一致・間違い探し」は,おそらく今日でも最も有効な方法でしょう。

『イエスという男』以外にも,材料を提供してくれる本はいろいろあります(実は,かく申す私自身,かつてやったことがあります)。ただし,反発を招かないようにやるには,慎重さが必要ですが。

渡辺比登志


ルドルフ・ブルトマン以来の「史的イエスと信仰のキリスト」の神学的問題についても、また、福音書の伝えるものが史実と言うより、むしろ信仰告白であるというようなことも、今日の神学の「常識」のようになっていることは知らないわけでもないのですが、わたしが抱えている問題は「聖書は神の言葉であり、いかなる誤謬も含まない」という主張です。この問題にわたしなりに決着を付ける、というのが、ここでやっている「聖書の間違い探し」という、いかにも低俗な作業です。現代の「学者」たるものにとっては、おそらくとてもはずかしくて出来ないような作業です。聖書には間違いがある、というような学術的論文を書いたら、学会で笑われてしまうでしょう。学者という立場ならとても恥ずかしくて出来ない低俗な「聖書のあら探し」を、マジでやっているところが、この「聖書の間違い」シリーズの存在価値といえるかもしれません。

わたしが、「聖書は神の言葉であり、いかなる誤謬も含まない」という主張にこだわっているのは、「はじめに」でも説明しているように、この主張が「聖書に書かれているから真理である」という主張に他ならず、それはとりもなおさず、真理の主張が、知識を根拠にしてではなく、権威を根拠になされていることを意味しているからです。真理の主張が、知識ではなく、権威と信仰に依存してなされるとき、たとえば、殺人命令さえも簡単に正義となることが、林郁夫の手記「オウムと私」(『文芸春秋』七月号)によくうかがえます。ですから、真理の主張が権威に依存してなされるとき、たとえ、ばかばかしい主張と思っても、それをオープンな場所で吟味のまな板に載せることは、それほど意味のないことでもあるまいと思われるのです。