今回も、前回(「なぜ何もしないで米麦ができるのか」)に続いて、自然農法家、福岡正信氏の言葉を紹介します。福岡氏の言う自然農法とは、一言で言えば、「なにもしない」ことをめざす農法のことであって、「不耕起・無肥料・無農薬・無除草」という四大原則に則る農法です。すなわち、田畑は耕さない、肥料は施さない、農薬は使わない、雑草取りをしないという農法です。福岡氏のすごさは、なんといっても、それを三十数年みずから実践してきてこられたところにありますが、そのかれを内から支えている根底は、近ごろはやりの環境保護思想などというものではなく、「額に汗して勤労するなんてことは一番愚劣なことであって、そんなものはやめてしまって、悠々自適の、余裕のある生活を送ればいい」というあたらしい百姓哲学のようです。
普通の考え方ですと、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、といって、ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だと思っているのですが、それでは忙しくなるばかりでしょう。
私は、それとは逆なんです。普通言われている農業技術を一つ一つ否定していく。一つ一つ削っていって、本当にやらなきゃいけないものは、どれだけか、という方向でやっていけば、百姓も楽になるだろうと、楽農、惰農をめざしました。
結局、田を鋤く必要はなかったんだ、と。堆肥をやる必用も、化学肥料をやる必用も、農薬をやる必用もなかったんだ、という結論になったわけです。
・・・だいたい私は、労働と言う言葉が嫌いなんです。別に、人間ははたらかなきゃいけないという動物じゃないんだ。働かなきゃいけないということは、動物の中でも人間だけですが、それは、もっともばかばかしいことであると思います。どんな動物も働かなくて食っているのに、人間は働いて食わなきゃいけないように思い込んで働いて、しかも、その働きが大きければ大きいほど、それがすばらしいことだと思っている。ところが、実際は、そうではなくてですね、額に汗して勤労するなんてことは一番愚劣なことであって、そんなものはやめてしまって、悠々自適の、余裕のある生活を送ればいい。まあ、熱帯にいるナマケモノのように、ちょっと朝晩出ていって食物があったら、あとは昼寝して暮らしている、こういう動物の方がよっぽどすばらしい精神生活してるんじゃないかと思うんですね。こういうのがむしろ将来の農業の方向であるし、その方向へもっていかなきゃいけない。・・・で、その手段として、何をやるかといえば、自然農法以外にはないんです。