「ふつう科学者は、「ああするとよい、こうするとよい」という方向で研究を進める。その結果、農業も例外ではなく、新しく費用とか労力のかかる技術や農薬・肥料を投入することになる。私はといえば、「一切無用」の立場から、「ああしなくてもよい、こうしなくてもよい」とムダな技術、費用と労力を切り捨ててきた。それを三十余年積み重ねてきたら、最後は、種を蒔いて、藁をふるだけになってしまったのである」今回紹介するのは、驚異的な自然農法家、福岡正信氏の言葉です。
ここは瀬戸内海を見下ろす小高い丘の上のミカン山。山小屋が二つ三つある。・・・自然農法のミカン山には地鶏が放し飼いしてあり、クローバーの中に野生化された野菜が茂る。山の上から見る道後平野の田圃には、一昔前のような麦の緑、菜の花、レンゲの花の咲く牧歌的な風景はもう見られない。荒れ果てた休耕田、崩れた藁ぐろ、その姿は、農業技術の混乱と、農民の心の荒廃とを、まざまざと映し出しているようだ。
その中にあって、自然農法の田圃だけが、鮮明な緑の麦でおおわれている。この田は、三十年もの間、かつて一度も鋤いたことがない。化学肥料も堆肥も施したことがなく、消毒剤もかけたことがない。何もしない農法だが、これでも麦も米も10アール当たり10俵(600キロ)に近い収穫がある。やがては15俵(1トン)どりを目指しているのである。
自然農法の作り方は、きわめて簡単明瞭である。秋稲刈り前に、稲の穂波の頭から、クローバーの種と麦種をばら蒔いておく。数センチ伸びた麦を踏みながら稲刈りをする、三日ほど地干しにしてから脱穀。そこで出来た稲藁全部を、長いままで田圃一面にふりさかしておいて、鶏糞でもあれば、その上にふりまいておく。次に稲の種籾を土団子にして、正月までに、ふりまいた藁の上にばらまいておけばよい。これで麦作りも籾播きも万事終わりで、麦刈りまで何もしない。作るだけなら10アール当たり1〜2人の労力で十分である。
5月の20日ごろ、麦を刈るときには、足下にクローバーが茂り、その中で土団子から籾が数センチの芽を出している。麦刈りをして、地干しがすんだら、出来た麦藁を全量長いままで、田圃一面にふりまく。田の畔ぬりをして4〜5日水をためると、クローバーが衰弱して稲苗が土に出る。あとは6〜7月の間無潅水で放任し、8月になってから10日か1週間ごとに排水溝に一回走り水をするだけでもよい。
以上で、米麦作のクローバー草生、米麦混播、連続不耕起直播という自然農法の概要は説明したことになる。
クローバーの中で米と麦が共生しているだけと言えば、そんなことで米が作れるなら百姓は苦労しないと叱られるだろう。しかし、事実作れるのであり、現に平均以上の収穫をあげているのである。それならば、ムダな労力を費やして作るほうに、どこかおかしいところがある、ということになろう。
ふつう科学者は、「ああするとよい、こうするとよい」という方向で研究を進める。その結果、農業も例外ではなく、新しく費用とか労力のかかる技術や農薬・肥料を投入することになる。私はといえば、「一切無用」の立場から、「ああしなくてもよい、こうしなくてもよい」とムダな技術、費用と労力を切り捨ててきた。それを三十余年積み重ねてきたら、最後は、種を蒔いて、藁をふるだけになってしまったのである。
「一切無用」というのは、ムダな人力のことをいうのである。なぜ何もしないで米麦が出来るのか、それは人間が作らなくても、自然が作ってくれるからである。
・・・自然農法では、何の資材も使わず、米1俵20万カロリーが1人役の労力で作れるのだから、百姓1日分の自然食約2000カロリーで百倍のカロリーが出来たことになる。一昔前の牛馬耕による有畜農業では、その十倍のカロリーが投下される。さらに小型機械化農業では、その二倍、大型の機械化農業ではそのまた二倍のカロリーが投下され、エネルギー浪費農法となっている。
・・・量の問題のみでなく、質の点でも、科学は自然の営みに及ばない。もともと分解できない自然を、人間が分解して把握したと錯覚したときから、科学農法は、不完全な虚構の食料を生産する羽目に陥った。近代科学は、それ自身、自然から何一つ生み出したわけでもなく、自然のあるものに量質の変化を与え、粗悪・模造の有害・高価な、食品という「商品」を作り出し、人間をますます自然から遊離させる手助けをしているのだと言えよう。
・・・今、人間は、自然から離れ、宇宙の孤児としての危機感に目覚め始めたが、自然のふところへ還ろうとしても、何が自然かわからないし、還るべき自然も破壊して、失われてしまっている。科学者たちは、東京の空の上をビニールの幕ですっぽりおおい、冷暖房・通風装置を付けて、その中に住もうとか、地下都市や海底都市に未来の夢を託している。都会人は死につつある。明るい陽の光、緑の田圃、動植物、そよ風に素肌をなぶらせる快さを忘れ去ったのであろうか。人間が真に生きうるのは、自然とともにである。
・・・自然を支配しようとしても人間にはできない、ということである。できることは、自然の営みに奉仕することである。自然の節理に従って生きるということである。