このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
キリスト教的無償援助は、必ず、助けられる者に精神的な負担をかけます。 それはプライドを持つ人間(すなわち、すべての人間)の心を傷つけずに はおかないこの部分について、自分自身でも思い当たることがあるので書きます。
僕はバイト等はほとんどしておらず、仕送りだけで生活しているので、 あまり金銭的な余裕がありません。今年から増やしてもらったので今はな いのですが、部活の後に何人かで、メシ食いにいこうぜ、ということにな りますが、たいがい何か理由をつけては断っていました。その時、皆でお ごるから来いよ、と言われることが何度かありましたがなんとなく抵抗が あって断りました。しかし、銀行へ行き忘れてお金が足りない時は、何の 抵抗もなく、金貸して、と言えます。このことが、キリスト教的無償援助 (僕の例の場合、キリスト教的かどうかはわかりませんが)は、必ず、助 けられる者に精神的な負担をかけます、の部分を読んでいて思い起こされ たのですが、僕の日本の国際援助(二)の解釈についてどうおもわれます か、佐倉さんの言わんとしていることと近いですか遠いですか。
大変よく似ていると思います。他人の自己犠牲が与える精神的負担は、おそらく人間の本質的なもので、宗教に関係なく、様々な程度と形で、日常の生活にも存在します。「おごるから」と誘われて「なんとなく抵抗」を感じられた木村さんの心は、きわめて健康的で貴重な心の働きだと僕には思われます。
キリスト教の場合は、自己犠牲とそれがもたらすものを、一つのシスマティックな思想に仕上げているのです。キリスト教とは、一言で言えば、イエスの十字架上での犠牲死によって罪人が救われるという教えです。まさに、自己犠牲そのものがその宗教の中心になっているのです。
「神の審判によって、罪深いわたしは裁かれる身である。しかるに、この罪深い身を、まったく御自身は罪のない方キリストが、わたしの身代わりに、十字架の刑にかかってくださったので、わたしは救いを得た。わたしは今、キリストの奴隷となります。」---- これがキリスト教信徒の信仰心です。自己犠牲の思想は、宗教的救いのみでなく、宗教を伝搬する宣教師たちの方法にも現れています。病院や学校を建て、貧者に施し、弱者を助け、さまざまな自己犠牲の善人行為によって、助けられる人々に精神的負担をあたえることによって、これらの人々の従順を勝ち取っていきます。助けられた人は、助けた人に一生頭があがらないからです。
もし、助けたことを恩に着せて、あれやこれや注文してくる場合には、多少腹が立っても、精神的負担はありません。それはほとんど無害です。それに比べて、助けた人が善良で無心で恩を着せない純粋な人であればあるほど、助けた人と助けられた人の間の精神的主従関係は絶対的となり、助けられた人は助けた人に絶対に頭があがらず、精神的負担は最大のものとなります。必ず、助けられた人は助けた人の精神的奴隷にならざるを得ません。キリスト教とは、このような自己犠牲のもつ力を最大限に利用して勢力を広げた宗教と言えるでしょう。
この自己犠牲の思想に本格的に吟味のメスを入れたのはニーチェです。
やむを得ぬ事である。献身の感情、隣人のための犠牲、このようなあらゆる自己放棄の道徳を、仮借なく審問して法廷に引き出さねばならぬ。さらにまた「利害なき直感」の美学をも。これを名として、現代では芸術の去勢が行われ、それが魅力さえもってやましからぬものとなりつつある。「他人のため」とか「自分のためではない」という感情には、あまりにも多くの甘い魅力があるので、それだけいよいよ猜疑もわき、尋ねたくもなるのである、「これは誘惑なのではないか?」、と。それを持つ者にも、その果実を受ける者にも、また第三者にも、この感情は気に入る。この気に入るという事実は、いまだかならずしも証明したことにはならない。むしろ、警戒せよと勧めるのである。されば、警戒せよ!ニーチェのすぐれた洞察は、自己犠牲の思想を、善人の仮面をかぶった狼として批判したのではなく、純粋な善意の自己犠牲こそが人の心を奴隷化する、と見通したところにあります。誰にも文句の付け所のない純粋な善なる自己犠牲、それこそがニーチェが「警戒せよ!」と叫んだところのものです。世話好きで親切な人というものは、ほとんど例外なく、まず助けられる人を用意してかかるという愚かしい策略をするものである。たとえば、相手は助けてやるに値し、こちらの助けをまさに求めているところであり、すべての助力に対して深く感謝して以後は輩下となって服従するであろう、と思い込む。かく自惚れて、彼等は所有品を左右する如くに困窮する者を左右する。もともと彼等は所有品に対する欲求からして、世話好きで親切なのである。されば、もしかれらが助力を阻まれたり出し抜かれたりすると、嫉妬する。
(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)
「おごるから」と誘われて「なんとなく抵抗」を感じられた木村さんは、まさにこの警告の声を自分の内側から聞かれたのだと思います。日米関係において日本がアメリカの要求を飲むことを躊躇する度に、アメリカは戦後、無償でかつての敵国日本を再興してやったのだ、としばしば語り始めます。わたしたちは、ニーチェの警告を思い起こすべきでしょう。
ご感想、ありがとうございました。