このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
日本はアジアのリーダーたるべきでない、との主張ですが、最近、日本が停滞し ている理由の一つに、日本人、特に若い日本人が2番にあまんじている、2番で 良いとしていることが挙げられると思います。2番でどこが悪い、と言われれば それまでですが、そのような思考ではこれから激化する国際競争にも勝ちを収め ることは難しいのではないでしょうか。 1番を望んでもせいぜい2、3番に終わるのが常であり、2番を望んではそれ以 下に落ちるものです。せめて気概だけは世界のリーダーとなるようでないとこれ からの荒波を乗り越えられないのではないでしょうか。
次に一連の米国批評ですが、米国のアラを探して批判するのも一つの道ですが、 それではなぜ米国が愛され、多くの友人を持っているか、考える方が建設的だと 思います。日本人は和の思想を持っているとは実感しますが、なぜ他者には理解 されず、西洋征服者の思想を持つアメリカ人が受け入れられるのか、侵略戦争と いうハンデはあるにせよ、日本人は友人を持っているとは言いがたいものがあり ます。米国人の長所を捉え、それを応用できればいいと思います。
日本はアジアのリーダーたるべきでない、との主張ですが、……そのような思考ではこれから激化する国際競争にも勝ちを収めることは難しいのではないでしょうか。日本がアメリカのまねをして、アジアのリーダーになろうとか、アジアと欧米諸国の橋渡しになろうとか、欧米諸国の仲間に入って世界のリーダーの一翼を担おうなどとか、そういう方向に日本を持ってゆこうとする一部の古い考えを持ち続けている時代錯誤の人たちに、僕が厳しく反対していることは、本サイトの諸論のあちこちに見られるとおりです。それは、あなたが言われているような、日本は頑張って一番になろう、というような気概に反対するような種類のものではありません。競争はおおいにやりましょう。僕も日本を応援します。僕自身も競争します。一番になりたいです。勝ちたいです。しかし、僕が主張しているリーダーシップの問題は、そういうものではなく、日本が国家として世界に対するときの哲学的姿勢のことです。かつてのソビエト共産党や現在のアメリカ合衆国に代表される「世界のリーダーシップ」なるものは、自分たちの正義や価値観が人類に普遍的なものであり、彼らの国境を越えて無条件に有効なのだとすると考え方であり、日本はそういう道を行くべきではない、というのが僕の「日本はアジアのリーダーたるべきでない」という主張の内容です。
個の相違に対する寛容を説く和の思想をアジアとの外交に実践すれば、一つの明確な基本的姿勢が見えてきま す。自己の価値を押し付けるな。アジアの諸文化を尊重せよ。アメリカの覇権主義に屈従せず、多文化の共存 できる世界を目指せ。アメリカの代わりに世界あるいはアジアのリーダーになろうとか、欧米の仲間に入って 一緒に世界のリーダーシップの一翼を担おうなどとか、ゆめゆめ考えてはならない。むしろ、スペインとポル トガル、英国とオランダ、そしてソビエト共産主義とアメリカ合衆国へと、移り変わってきた西欧キリスト教 文明の覇権主義にとどめをさすことを、日本の歴史的使命とせよ。そして、小さな国も大きな国も、誰にも干 渉されず独自の文化を育て発展させて行くことの出来る、そういう世界造りに努力せよ。そんなことを、和の 思想から、僕は考えたりするのです。 (「日本の国際援助(二)」より)というわけです。したがって、日本は頑張って一番になろう、という気概に反対する理由は何もありません。
次に一連の米国批評ですが、米国のアラを探して批判するのも一つの道ですが、……米国人の長所を捉え、それを応用できればいいと思います。僕の米国批判は「アラ探し」のような手ぬるいものではありません。もっと本質的なものです。米国を「偉大な国家」にならしめた根本(キリスト教、人権思想、個人主義、正義の味方、善人行為)を吟味の対象にしているのですから。僕は、米国の一番良いところが日本では何の役にも立たないばかりか、有害であるかもしれない、と主張しているのです。「米国人の長所を捉え、それを応用できればいい」というような考え方は、あまりにも単純で無思索で危険です。そもそも長所と短所はほとんどいつでも同じコインの裏表であり、長所を取れば短所がついてくるし、短所を取り除けば長所が消えてなくなるような代物です。たとえば、神の存在を前提にする社会道徳システムは、神の存在を信じられない心に道徳的無政府状態を生じさせるという逆事実から逃れることは出来ません。そこにアメリカの犯罪の本質的問題があることはすでに本ページで指摘したとおりです。また、ある人には薬であるものが他の人には毒になることも日常茶飯事です。ペリー・ショックで近代日本はアメリカやヨーロッパを無批判にまねて「富国強兵」の道をまっしぐらに進みましたが、結果はアジアの植民地化と世界大戦の悲劇でした。日本史上の最大の悲劇は、無批判に欧米をまねたことから生じました。米国で良いことが日本でも良いとは限らないことに気がつかなかったからです。もしかしたら、米国では「悪」として拒否されたものこそが、日本では身につけるべき「善」かもしれません。学ぶならば、そういう学び方をすべきでしょう。
それにしても、「米国が愛され」ているというところをよんで、僕はちょっとおどろきました。まだこんなことを信じている人がいる、ということが僕には信じられなかったからです。もっとも、強姦された女性がその強姦した男に積極的にくっつくという精神倒錯の事実もありますから、それほど驚くべき事ではないかもしれません。
岸田:やっぱり個人の神経症の患者の精神療法とまったく同じで、患者自身がもっとも認めたくない不愉快な事実を認めないと、治療にはならないわけですから、その事実を両方が認識する必要があるんではないかと思います。そして男と女の場合でも、強姦された女も、この男と仲良くしようとする場合には、被害者の方も、その事実を否定するわけですね。加害者はもちろん否定する。だから否定するという点で、加害者と被害者が同盟するということがあるわけです。と、一人の精神分析学者は、ペリー・ショック以来の日米関係を分析します。一部の日本人たちが、思い詰めたように「アメリカは日本に良いことをした」と思いたがるのは、このような倒錯した精神構造があるからでしょう。強姦した相手に「怯えて屈服し、男に気に入られようと積極的にサービスしたりして」しまい、ノコノコとその相手についていってしまった女のように、自分がそんな卑屈なことをしたという不愉快な事実を認めたくないから、それゆえにこそ、逆に、日本人は一生懸命アメリカ賛歌を歌うのです。「アメリカが世界に愛されている」というのは日本の精神的倒錯が産んだ幻想にすぎません。バットラー:被害者の方は、侮辱とか屈辱とか、そういうことを否定するわけですね。
岸田:自分がそういう屈辱的な目に遭いながら、のこのこと相手について行ったわけですから、自分がそんな卑屈なことをしたとは自分でも認めたくないんです。最後の最後まで抵抗して暴力で押さえ込まれた場合は、女は、少なくとも自ずから進んで協力はしなかったという最低限の自尊心は守ったわけですから、まだしも屈辱感は少ないんです。怯えて屈服し、男に気に入られようと積極的にサービスしたりしてしまった女のほうが屈辱感はくらべものにならないほど深い。そういう点から考えれば、抵抗したあげく、軍事的に敗北して植民地になった国よりも、日本の方が屈辱感は深いと見なければなりません。しかし、強姦した男のほうから見れば、後者の女に対しては前者の女に対するほど加害者意識はないでしょうね。女が喜んでいるようにみえたでしょうから。(岸田秀『黒船幻想』河出文庫)
「日本人は友人を持っているとは言いがたい」というのも奇妙な表現です。おそらく、どこかの三流評論家のことばを借りてこられたのだと思いますが、根拠のない虚説です。もっとも、いつまでもアメリカの機嫌ばかりうかがっていて、自分で何事も判断も主張もできないから、日本は世界から馬鹿にされているのだ、という意味では、事実かも知れませんが。
「愛される日本」を造るために、いつまでもいつまでも、世間(アメリカ)の機嫌をうかがっている、というような子供じみた次元から、日本はそろそろ卒業すべきなのではないでしょうか。世間・アメリカがなんと言おうと、自分が正しいと信じたことを、率直に主張し説得し実行できる個人・国家を目指すべきではないでしょうか。別に、米国がなくても、世界や日本がやってゆけないことはないのであって、米国なしに国家として十二分やってゆける条件を整えた上で、米国の利用できるところは利用すればよいのです。米国に依存しなければ存続できないような状況に日本を追い込んではいけないのです。アメリカは神様ではないのですから。
ご意見、どうもありがとうございました。