佐倉 哲様へ

初めてメールさせて頂きます。39歳の産婦人科医師です。 「真理の根拠」に関心があり読ませていただきました。とても明快な記述に触れ、胸のつかえが取り除け爽快な気持ちになれました。ありがとうございました。

ひとつお聞きしたいことがあるのですが更新ページにあった胎児の問題です。我々も現実には様々な理由で妊娠中絶術をする立場なのですが、いわゆる親の経済上の理由での妊娠中(22週未満)の処置に関してどのようにお考えですか。これを殺人で許されない行為であるとするものや胎児であるがゆえに許容されるという妥協や諸々考え方があると思います。国によっても法的な対応は千差万別です。お考えを聞かせていただければ幸いです。

1.「妊娠中絶」是非の問題は価値(好み)の問題

「真理の根拠」の問題は知識の問題であり、「妊娠中絶」の問題は(善悪に関する)価値の問題です。知識は客観的(真理は誰にとっても共通)ですが、ものの価値(美醜・善悪)は主観的(個々によって違う)です。ダイヤモンドの知識(たとえば分子構造)は誰にとっても同じですが、おなじダイヤモンドでもその(美しさの)価値は個人によって異なります。そんなダイヤモンドなど100円使うのももったいないと思う人もいれば、1億円だしてもほしいという人もいます。価値とは<好み>のことですから、判断が個々によって異なります。

善悪の判断は知識の問題ではなく価値の問題です。「妊娠中絶」の問題を<好み>の問題だ、などといえば怒る人もいるでしょうが、たとえば、「アメリカ人を殺すこと」がある人々にとっては「善・正義」となり、他の人々にとっては「悪・不正」となるのは、善悪とか正・不正の判断が、客観的な知識の問題ではなく、主観的な価値観の問題だからです。ものにどんな価値があるかは、「水は何度で沸騰するか」などといった知識の問題と違って、客観的な(万人共通の)回答はありません。価値とは<好み>のことだからです。「妊娠中絶」是非の問題は価値(好み)の問題です。


2.個人の価値判断と共同体の規則

価値判断(好み)はあくまでも個人のものですが、個人が共同体の一員でなければ道徳的価値(善悪)の問題はあり得ません。 人間が一人だけで生きている場合、善も悪もありません。道徳的価値(善悪)判断とは、<共同体における個人の振る舞いに関する善し悪しの判断>のことであるといえるでしょう。

人間は一人では存続し続けることはできませんから、かならず共同体に所属します。そして、一つの共同体はそれが存続するためには、<共同体における個人の振る舞いに関する善し悪しの判断>基準の統一を必要とします。「サリンをまいて人を殺しても良い」という価値観とそれを否定する価値観を同居させるわけにはいきません。「妊娠中絶」是非の問題も同じです。そこで、そのどちらかが共同体の「善」(公法)となり他が「悪」(不法行為)となります。

共同体の政体の違いによって、独裁者(集団)の好みが「善」(公法)になったり、多数者の好みが「善」(公法)になったりします。どちらにしても、善悪の基準を公法に仕立て上げることは、それに賛成しないものに対する一種の強制ですから、善悪に関する個人の好み(道徳)と共同体の規則(公法)の間に、不一致を生むことになります。それだけではなく、国際関係の歴史を見れば明らかなように、ある共同体の規則と他の共同体の規則の間にも、当然のことながら、不一致が生まれます。

そもそも、個人の善悪観と彼(女)が所属する共同体の規則の間に相違が生じるのは、実は、一人の個人がいろいろな共同体に同時に所属しているからだと考えられます。同じ一人の個人が同時に、家族、親族、団体、会社、宗教、市町村、国家、アジア、世界、人類という大小様々な「共同体」に所属していて、それらの価値観は、必ずしも一致していないからです。一人の個人の心の中でさえ、価値観は必ずしも統一されておらず、しばしば、葛藤に陥るのも、このように、一人の個人が、同時に、重なり合う様々な共同体に所属していて、相矛盾する価値観を内包しているからだと思われます。

このように、「妊娠中絶」是非の問題に限らず、すべて善悪の価値観に関する問題は、事実に関する認識問題と異なって、本質的に「すっきり」させることができないものです。善悪の価値観とは、様々な相重なる共同体に所属する個人の<好み>の問題だからです。


3.理想主義

善悪の価値観に関する問題を「すっきり」させないままにしておくということは、一つの価値観から眺めてみれば、悪を容認することになります。理想主義とは、自分のお気に入りの一つの価値観(「普遍的原理」)を世界中に広めることによって、悪をすべて追放し、善悪の価値観に関する問題を「すっきり」させようとする運動のことです。イスラム原理主義やキリスト教原理主義や共産主義やオウム真理教や幸福の科学、等々の「純粋な人々」は、その典型的な例と言えます。


4.わたしの立場

わたしは理想主義者ではありません。わたしはできるだけたくさんの悪の存在(自分とは反対の価値観を持つ人々の住民権)を容認したいと思います。私は「妊娠中絶」は悪だと思っていますが、一つの価値観を他人に押しつけて、すべての悪を追放しようとする試み(理想主義)は、それとは比べ物にならないほど、大きな悪だと思っています。


5.(このページを読んでいるかもしれない)妊娠中絶を考えている人々へ

あかちゃんを産んで下さい。育てることのできない事情があったら、子どもが欲しくてもできない人々と話し合って養子の可能性を考えて下さい。誰にも知られたくない事情があったら、その子の面倒をみてくれると思われる病院やお寺に、あかちゃんをそっとあずけていってください。できたら、名前だけでもつけてあげて下さい。

(経済的事情なら、養育を援助できる公の政策が必要だと思います。)