「進化論をまだ信じている人が居るなんて」と云われたことがあります。はっきりって、かなりショックでした。僕にしてみれば、「創造論なんて、信じているとは」ですが。
創造論では多くの場合、
1.生命の発生を科学(もしくは進化論)では説明できない。 2.よって、科学の一部である進化論は誤りである。 3.だから、生物は進化していない。 4.そして、創造論が正しい。などと説明されていることが多く見受けられます。
しかし、この論理の展開は偏った見方ですね。1から2、3から4への飛躍が見受けられます。確かに、生命の発生を科学や進化論では決定的に説明できません(過去のことですから当然です)。説明できたとしても、非常に低い、むしろ、無いと云っても過言ではないか可能性しかなかったりもします。しかし、そのことが進化論を誤りと見なすかは、私には「思いたいから」としか考えられません。 どうして、「生命の発生は神が行ったが、神は進化を促し、多様性に富むこの世界を見守ってこられたのだ」と云えないのでしょうか?べつに創世記の間に生物は進化したと云っても良いと思いますが。決定的に否定してないんだから。もっとも、創世記にも矛盾があるようですが。
1.生命の偶発
さて、生物は偶然に発生したのでしょうか?私は答えを知りません。これから先、知ることもないでしょう。その上、興味がありません。だって、私は此処に存在していて、生きているのですから。神が造ったとしても、偶然が造ったとしても、同じことです。神が造ってくれなくては、自らの生に感謝できないほど、無為ではありませんので。 しかし、あえて語るなら、私は「偶然」の味方をします。なぜなら「作為」を求めると、作為の起源にも頭を悩ましてしまうからです。「人は神から来て、神の下へ行く。しかし、神はどこから来て、何処へ行くのか?」
勘違いされやすいのは「偶然」の意味です。ここでの「偶然」とは非常に確率が低い事柄です。原因がないわけではありません(この世界に原因がない事柄があるでしょうか?)。また「確率が低い」とは起こり得ないことではありません。たとえ、10の-99乗であろうと、起こらないわけではありませんし、10の99乗回試せば最後に一度起きるわけではありませんし、起きないことだってあります。確率は、ある事柄について、1回試すとその確率はリセットされます。サイコロで1が出る確率は6回降っても全て1/6であり、一度振るごとに1/6,1/5,1/4,1/3,1/2,1とはなりません。 よって、「偶然に生命が発生する可能性」は0ではない限り、あります。対して、「神が生命を創り出す可能性」は神が私にとって未知数であるため、あるとも無いとも云えません。誰が、神の言質(聖書)の真偽を知ることができるのでしょうか。疑い深い私には、たとえ聖書が神の霊感によって書かれようとも、自己言及などとても信じることはできません。
2.分子進化
人類に限らず、生物は進化したと云うのが私の知る限り科学者の意見です。 確かに、進化論を捨てた科学者もいることでしょう。しかし、科学と云っても物理、化学、生物、と高校で分けられているぐらいで、生物学者が素粒子論を完全に理解しているわけでもないし、物理学者が発生生物学を網羅しているわけでもありません。大体、生物学にしても、分子、細胞、内臓、代謝、形態、発生、機能、分類、疾病、衛生、食品、遺伝、人類学(これは社会学かも)、生化学、医学、薬学、進化、その他諸々、それらの組み合わせ・・・の分類分けがあり、生物学全てを網羅するなどと云うことは到底一人の人間にはできないことでしょう。だから、何処の分野の権威とも判らない人を連れてきて、「進化論は誤っている」という言葉を吐かせても、私はちっとも信用しません。また、進化と生命の起源は別の分野であり、生命の起源が説明できないからと云って、進化を否定するのは、お門違いです。 更に云えば、ほとんどの生物系科学雑誌(日本語のみならず英語文献でも)では「進化」を認めています。最もポピュラーな「Natuer」でも「進化」という項目を見ます。創造論が大手を振っているなんて、創造論者の妄想じゃないんですか?
創造論では、人類の歴史は6000年前ぐらいだとのことですが、それは昔の進化論に反するだけでなく、現在、先端と思われる分子進化の考えにも反しています。 分子進化の基本は「生物の遺伝子(又はDNA)は親から子へと伝わるが、その一部にはエラーが含まれている。そしてそのエラーはその子孫においてのみ保存される」と云うものです。 ここで、遺伝とその担い手であるDNAに付いての説明をさせていただきます。 DNA(デオキシリボ核酸:Deoxy riboNucleic Acid)とは四つの化学物質(dAMP,dGMP,dCMP,dTMP)が直鎖状に(リン酸結合によって)結合した化学物質です(全ての分子は化学物質ですが)。この四つの化学物質は基本骨格(糖:deoxyribose,リン酸基:phosphate)は同じで、塩基:baseが異なるだけです。それぞれ、アデニン:adenine;A,グアニン:guanine;G,シトシン:cytosine;C,チミン:thymine;Tが基本的骨格に一つずつくっついています。この塩基の配列が読まれ、生命活動を司るタンパク質(アミノ酸の直鎖状に結合したものです)へと変換されます(翻訳と云います)。
遺伝子とはこのDNAの塩基配列のうち生命活動に用いられている部分を云います。多くの遺伝子はタンパク質へと翻訳されるものですが、中には翻訳される部分や量、タイミングを示したりする配列も含まれます。 少し話がずれますがこの翻訳には塩基配列が3つずつ使われます。たとえばATGだったら、メチオニンと云うアミノ酸、CAGだったらグルタミン、TCCだったらセリンという具合です。ですが、アミノ酸は20種、塩基配列は4*4*4で64配列。かなり重複してアミノ酸が割り当てられています。ですから、一塩基ぐらいが変化してもアミノ酸配列には全く影響のないこともあるわけです。しかし、このアミノ酸の割り当てははっきり云って、適当です。良く使うアミノ酸だから、沢山割り当てられているわけでもありません。ここには到底、神の御業が宿っているとは言い難いです。
さて分子進化とはこのただの化学物質であるDNAの変化を見るものです。 基本的にはDNA(二組ある染色体の一方が)は精密に親から子へと複製されていきます。しかしながら、DNAは比較的安定ではありますが、時には複製時のエラーや、放射線(電磁波)や化学物質(特に活性酸素)等の影響で全く同じ配列にはならないことが判っています。ですが、親子の特徴が似ていない理由になるほど大きいエラーは滅多に起きません。もし、それほど大きい、もしくは大量のエラーであれば、多くの場合は母体内で正常な成長が起こらないでしょう。成長したとしても、遺伝的欠陥による難病になり、子供が残せるほどには成長しないかもしれません。また、僅か一塩基のエラーであっても、致命的なエラーになり、個体は死に至ることもあります。実際、難病には正常と僅か一塩基の差で起こるものもあることが判っています(家族性アルツハイマーなど)。 しかし、その僅かなエラーは確実に子からその孫へと伝わっていきます。他の親から生まれた子にないエラーがその子孫に伝わって、保存されているのです。(DNA鑑定などは、また別のやり方で行っていますが、子供のDNAには親のDNAの特徴が保存されていることが利用されています)
モンゴロイドとアフリカンでは、DNAの配列に蓄積されたエラーが確実に違います。しかし、それは人間に最も近いとも云われる類人猿とのエラーの量と比べればごくごく微量です。それは、同じ人間なのだから、当然と云えば当然ですが、その違いは類人猿の一つの群と、もう一つの距離的に離れた同種の群との差異よりも小さいそうです。それは、人間がかなり出現の遅い動物であることを示しています(遅いと云っても50万年ですけどね)。 そして、ミトコンドリアDNA(説明は省きますが、母系でしか伝わらないDNAです)の解析により、人間という種はたった一人の女性から生まれ出たことが判っています。彼女を旧約聖書になぞらえて「ミトコンドリア・イヴ」と呼びますが、まさに、旧約聖書のこの一部については、科学的に適当だと云えるでしょう(ちなみに、このイヴはアフリカンであり、当然のように黒人だと推定されています)。 しかしながら、「ミトコンドリア・イヴ」は6000年前に存在したわけではありません。それ以前、およそ50万年前に存在していたと云われます。
さて、なぜ故に、科学者はそう結論するのでしょうか。 それは、化石や年代測定に頼った理論ではありません。DNAの配列の変化による数学的、統計的な計算から導き出されました。 簡単なモデルで考えてみましょう。親から子へのDNAの複製でn数のエラーが起きるとしましょう。もちろん、これは中立進化と呼ばれるアミノ酸配列にも変化を与えないエラーです。アミノ酸配列が変わったら、出産以前に死んでしまうと仮定します。同じ親から生まれたと云っても、全く同じ精子と卵子から生まれたわけではないので、兄弟ではエラーの部位が違います。家系図をしっかりと書いてあるなら、AさんとBさんはX代前で血がつながっているのが判ります。そして、AさんとBさんの異なった塩基配列は(2nX)箇所になります。それぞれ別の家系ですから、別の箇所にエラーが入っているから2nです。もちろん、現実ではこれほど綺麗に結果が出るわけではありません。次に地理的に隔離された人種的に違う二つの集団を選びます。この二つの集団のDNA塩基配列の差異は約500nカ所でした。これはX=500n/2nですから、約250代前に先祖が同じであったことを示します。
この簡単なモデルのnを、ミトコンドリアDNAの一代当たりの変異数に置き換えたものが実際の分子進化による測定の考え方です。ヨーロッパの一部には何代もさかのぼって、血統の調査ができる家系図が存在します。彼らのミトコンドリアDNAを調べ、その変異がどれくらいの確率で起きるかを求めます。当然、一集団ではなく、かなり多くの集団が調べられていると思われ、誤差は少ないと思います。そして、人種の違う集団(当然今生存している人々)のDNAの差異を調べることで、その分岐点がどれほど昔であるかが判ります。 もちろん、誤差はあります。たとえば、現在とは寿命が違うため、世代数は判っても、年代までは特定できないかもしれません。しかし、もし年代を短縮するなら、初期の人類は非常に短命であったとともに、早熟であったと結論しなければなりません。また、年代を短縮するためには変異率を上昇させることもできますが、もし、上昇させた場合にはそれが現代では下降した理由と共に、なぜそれだけの高変異率で、致命的エラーもなく生存していられるか、仮説を立てる必要があります(当たり前ですが、変異率が上がれば、致命的エラーも起こる可能性が高くなります)。偶然だと云うなら、その確率Aは、(一回の偶然が起きる確率)aとすると、(今まで生まれてきた人間の数)n回だけ起きたわけだから、A=a^nとなり現在生きている50億の人間だけでも相当な値でしょう(計算する気も起きませんね)。こんな偶然、生命が偶然に作られるより起こらないでしょう。 また、遺伝子の幾つか(HLAなど)は到底たった二人の男女から生まれた可能性は全くないと云って良いほどの多型、つまり種類は同じでも内容が僅かに違いをもったものがあり、変異が起きるのには100万年も時を経なければならないものがあります。
3.進化の肯定
人間は猿から進化したわけではありません。正確に云えば、現存する類人猿たちと祖を同じくしているものの、別の進化を辿った生物です。「チンパンジーが人間に進化するか?」などという質問は、全ての進化の頂点、いわば万物の霊長は人間であるという人間の傲ったモノの見方です。チンパンジーはチンパンジーが住む環境では、最も適応した生物なのです。つまり、彼らには、今のところ、進化する必要など全くないのです。しかし、人間には、適応する場所がなかったかもしれません。だからこそ、自分たちで適応する場所を作り始めたのだと、私は考えています。
自然淘汰や、要不要は確かに進化の要因としては、非常に薄弱です。私はこのような時間のかかる進化は種族内の強化や、環境における不適応者の廃絶には用いられますが、決定的な進化ではないと思います。前述の分子進化を、私は生物が進化した科学的な論証だと意味づけています。分子進化を辿っていけば、化石や年代測定に頼っていた系統樹はほぼ正しいことが立証されているからでもあります。微生物、原生動物、脊椎動物、ほ乳類、人間と順番を追って進化してきたであろうことは、塩基配列の差異や相同性からも読みとれます。 ただ、進化が起こったのが結論づけられたとしても、進化がどの様に起こったかは未だ仮説です。しかし、「人間は進化の結果である」というのは創造論者が云うような科学者が頑なに信じている「教理」ではなく、複数の視点により観測された、互いに独立した証拠から導かれた科学的仮説です。もちろん、いつまでも創造論を頑なに信じている方には、最近の進化論など耳にも入ってこないでしょうが、科学は着実に歩んでいるのです。
余談ですが、肺で呼吸をする肺魚、産卵するがほ乳するカモノハシ、魚類であるが顎を持たないサメ、ヒレで海底を「歩く」シーラカンスなど、進化の途中にしか見えない動物も居ますね。特に、シーラカンスなど限られた場所でしか生息できないほど現在では「弱い種」であって、その場所で進化する必要がなかったからこそ「生きた化石」で居られたのであり、これほど弱い種を見て「生物は進化しない」などと云うのは妄執ではないでしょうか。
ですが、一つだけ注釈をつけておきます。私はこの中で、創造論者が云う6000年前の一組の男女から人類の誕生を否定はしておりますが、神の創造を否定はしません。それは、私に否定する材料がないからです。しかし、肯定する材料も全く持ち合わせていません。
4.ダーウィンの呪縛
進化論というものを語る上で、ダーウィン(Charles Darwin)の業績は大きなものと云えるでしょう。彼は、その「進化」と云う概念を発見したと云っても過言ではないでしょう。しかしながら、未だにダーウィンが唱えた進化論を語るのは時代遅れと云えるでしょう。 前述のDNAの複製エラーは人間であれば一年当たり10の-9乗の確率でしか起きず、一年に3塩基ほど置き換えられる程度である上に、人間の遺伝子は全DNAのうち約2%にしかありません(推定)。その上、生殖細胞でのエラーしか子孫に伝わらないため、生物の遺伝子の突然変異はほとんど起こらないと云っても過言ではありません。しかも、多くの突然変異は致死性であり、自然淘汰によって遺伝子の変異はほとんど次の世代には伝わりません。この論調で行けば、生物は進化しないと云っても過言ではなくなるでしょう(実際創造論ではこのことを挙げて進化を否定しますね)。ですが、突然変異の起こり方はこれだけではありません。例を挙げるにはいささか専門的になりすぎるのですが、染色体2nからの4n化、染色体における転座、重複、組み替え、欠失などの変異があります。また、繰返し配列やメチル化による高確率の複製エラーなども関与して、遺伝子は変異することがあります。こういった変化の多くは死をもたらしますが、死を免れて大きく変化した種が生まれたとしても、不思議ではありません。特に染色体の倍化と重複によって、以前の遺伝子を破壊せずに、新たな遺伝子を獲得することができ、生存の可能性は大きくなります。
また、最近では変異した遺伝子は閾値に達しない限り発現されないと云う報告もなされています。つまり、変異がある程度までは許容され、ある程度その集団に変異が行き渡った頃に、協調して形態の変化が起きるという説です。 こういった変異がもたらす個体への変化はダーウィンが提唱した「少しずつ変化していく種」という概念を完全に逸脱して、古い種から新しい種が直接生まれる可能性を生み出します。
現在では人類の祖先であると学校で習った人も多い(少なくとも僕はそう教わりましたが)アウストラロピテクスや北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール人などは我々の直接の祖先ではないと結論されています。我々の種が生まれたのは約40万〜50万年前であり、それ以前に世界に分布していた原人などは全て絶滅した種であるとされています。 今までの考古学をもとにした進化論では幾つかの誤りがありました。そのうちの一つが「中間型」を求める考え方です。前述の「少しずつ変化していく種」の考えに固執したため、化石を漁り、年代に矛盾が生じているかのように錯覚してきたのです。しかし、生物の進化はそれほど冗長でもなく、突然に起こりうる可能性を秘めているのです。実際、多くの生物が辿った進化の道筋は、その突然の爆発的進化だったと思われます。我々生物の染色体には大規模な改変が起きる可能性とそれを許容する能力があるのです。 ダーウィンの呪縛は原始の生命群から受け継がれたDNAによって、すでに断ち切られているのです。
5.多様性
遺伝子データベースを利用すると判るのですが、ヒトとマウス(ハツカネズミ)の塩基配列は似てはいるものの、所々余分な配列があったり、変異を起こしていることが普通です。ヒトとマウスは同じほ乳類ですが、同じ齧歯類に属するマウスとラット(ドブネズミ)でさえ、変異している箇所は結構見受けられるのです。「同じ神が創ったのだから、似ているところは当然ある」などという説明をエホバの証人の方から聞きましたが、似ているけど、違うのです。しかも、違い方が余程重要な機能部位でない限り、ランダムになっていて、非常に不規則なのです。その上、染色体の本数は違うし、染色体上の遺伝子の位置も種によってバラバラだし、一口に生物と云っても多様性は計り知れなく「神が創った割には不均一」なのです。とても、同じ創り手による作品、などと云える代物ではありません。確かに精密ではありますが、生命は機械のように、設計図が見えるほど精巧ではないと感じます。また、機械のように無駄がないわけでもなく、全ての生物は危ういバランスの上にいます。そのバランスこそが神の御業だという人に聴きたいのは、「あなたは遺伝的な疾患によって、苦労している人、その家族に、神の御業の所業だと誇れるのか」と云うことです。原罪があるとしても、なぜそれは人々に不均一に分布するのでしょうか。キリストの名も知らず死んでいく人々はどうなってしまうのでしょうか。
また、多くの人が「万物の霊長は人間」などという、人間の幻想を鵜呑みにしているようですが、人は光合成はもちろん、ビタミンの合成もろくにできず、乳児期には歩行もままならず、学習しなければ食物の区別も付かない、生物としてはかなり脆弱ではないでしょうか?微生物の世代時間の短さ、昆虫の種の豊富さ、ほ乳類の身体的強靱さ、鳥類の行動範囲、ウイルスの巧妙さ、そういったものを知るたびに、どれだけ人間が脆弱な生き物であるかが判ります。もちろん、人間には大きな脳による時間感覚、言語能力、価値変換、手先の器用さなど、確かに誇れる部分もありますが、それは他の生物にない(ように見受けられる)から珍しいわけであり、人間が持たない部分もかなりあります。一人の生物学者として私は、人間を特異的な生物だとは思いますが、極めて優れた生物だとは云えません。他の生物を卑下し、自らの僕だと思うなど以ての外だと思っています。花が人間を楽しませるために存在するなら、昆虫にしか見えない文様は何のためにあるのでしょう?花にとっては昆虫に見える文様さえあれば十分なんです。その副産物が我々に見えているに過ぎないのではないでしょうか?木々が我々のために光合成しているなんて、家畜が食べられるために生きているなんて、猫が我々を楽しませるためにいるなんて、地球が我々のために微妙な位置を保っているなんて、全部、人間の思い上がりではないですか?同様に、輪廻転生などと云う人間を生物の中で最上位に置く事も人間の傲慢さではないでしょうか。
6.宗教の起源と進化
はっきり云って、全ての宗教の原点は「自分は特別」と思いたいだけに過ぎないと思います。誰も認めてくれない自分(達)を認めて貰うために、自ら神を創り出し、そして、自分を特別な存在だと思う。自己暗示と、自己欺瞞の産物です。しかも、自分自身に自信がないから神を必要としているわけですから、創り出された神も自信がないんです。だから、より多くの人が信じてくれないと、神は強くならないんです。自分以外の誰かも同じ神を信じていれば心強い。だが、信じていない人が居ると、無意識では自分の神が間違っているような気がしてならないから、滅ぼそうとしたり、改心させたり、批判したり、信じさせようと躍起になるんです。 私には、そんな物騒で、共同幻想に支えられた「創造物」なんて欲しくありません。
(1)創造と進化
べつに創世記の間に生物は進化したと云っても良いと思いますが。
おそらく、大多数のクリスチャンは、創造と進化の両方を認めているのではないかと思います。わたしもかつてはそうでした。
(2)偶然と確率
たとえ、10の-99乗であろうと、起こらないわけではありませんし、10の99乗回試せば最後に一度起きるわけではありませんし、起きないことだってあります。確率は、ある事柄について、1回試すとその確率はリセットされます。サイコロで1が出る確率は6回降っても全て1/6であり、一度振るごとに1/6,1/5,1/4,1/3,1/2,1とはなりません。 よって、「偶然に生命が発生する可能性」は0ではない限り、あります。
もちろん、どんなに確率が低くても、ゼロでないかぎり、可能性はありますが、偶然の確率は低いのでしょうか。「サイコロで1が出る確率は6回降っても全て1/6」ですが、10個のサイコロを使えば、そのうちの一つが1とでる確率はより高くなり、1000個のサイコロを1000回使えば、そのうちの一つが一度ぐらいは1とでる可能性は極めて高くなり、10の99乗の数のサイコロを10の99乗回ためせば、そのサイコロのうちの一つが一度くらいは1を出す確率は、もっともっと高くなり、やがて、「偶然に1がでる(生命ができる)確率は少ない」と考えるほうがむしろ不合理的になるのではないでしょうか。
(3)進化論批判
何処の分野の権威とも判らない人を連れてきて、「進化論は誤っている」という言葉を吐かせても、私はちっとも信用しません。
これは本当にそうです。進化論批判を書いている著者のバックグラウンドを見ると、そのほとんどが、神学者とか、弁護士とか、エンジニアとかで、本当にガッカリさせられます。
(4)生命の目的
生命は機械のように、設計図が見えるほど精巧ではないと感じます。また、機械のように無駄がないわけでもなく、全ての生物は危ういバランスの上にいます。
今まで存在した生物種の99.9パーセントは絶滅したと言われています。(ジェームス・トレフィル)
このあいだ昆虫の生態に関するテレビ放送を見ていましたら、吐き気を催すようなシーンが出てきました。昆虫の中には、他の昆虫の幼虫の中に卵を産み付ける習性を持つものがいて、その卵は幼虫の中で養分を得て育っていき、最後には内側から幼虫を食い殺して外に出てくるのです。神とは実に残虐な設計者です。
ところで、神は何のために男性の乳首を作ったのでしょうか。(^^)
(5)宗教の原点
はっきり云って、全ての宗教の原点は「自分は特別」と思いたいだけに過ぎないと思います。
宗教が生まれた歴史的原因は沢山あると思います(たとえば、タブーの権威付けなど)が、現代人が宗教に魅かれる重要な理由の一つは、確かに、そういうものがあると思われます。自分が存在しているのにはなにか特別な目的・意義があると思いたいのだと思います。道がなければ歩けない、と駄々をこねているようなものだと思います。