もちろん現代においても、神や、理想とか真理とかの何らかの抽象的観念や、人類とか国家とか民族とかの遠くにある所属集団などを自我の支えとしている人たちは存在しているが、多くの人にとってこれらの支えは今や色褪せている。日本人と欧米人との比較で言えば、欧米人は日本人のように、身近な所属集団(会社など)や家族(とくに子供)を自我の支えとしないので、神その他の、個人を越えた存在が自我の支えにならなくなると、個人に内在するものに自我の支えを求めるようになった。この動きは神その他の存在の絶対性、普遍性を個人が奪い取っていった動きと対応しているが、その当然の結果として、はじめは、個人に内在するとは言っても、個人を越えたところにある(とされる)絶対的、普遍的存在を内在化したものであった。いわば個人が何らかの普遍的なものを分有しており、その分有しているものに個人の自我の支えが求められた。これは一種の妥協である…。ただ個人に内在するものを支えとすれば、個人は外部の世界、他の人々と決定的に対立し、各人はバラバラになって、何のつながりもなく、孤立の恐怖におびえていなければならないという袋小路にはまり込むことになる。この袋小路から逃れるためには、個人に内在すると同時に何らかの普遍的価値とつながっているものをもってくる必要があった。
しかし、この妥協案には致命的な難点があった。もしそのような好都合なものが存在し、個人の自我がそれに支えられるのであれば、個人と集団とのあいだにはなんの矛盾も軋轢もないはずである。個人は自分に忠実に生き、それが同時に集団の秩序に沿っているということになるはずである…。ところが、現実には各人のエゴイズムとエゴイズムは醜く対立し、個人の利害は集団の利害と衝突し、集団の秩序は各人が自分を抑え、殺すことによってかろうじてと保たれているにすぎない。この難点を解決するために、現実がそのようであるのは、集団に関しても個人に関しても、この現実の方が間違っているのであり、個人に関して言えば、それは個人がその本来的な「真の自己」を失って非本来性へと頽落し、「偽りの自己」を生きているからであるという思想が作られた…。個人がそれぞれの「真の自己」を見出し、実現すれば、それは個人の真の幸福をもたらすと同時に普遍的価値も実現し、集団の利益とも一致すると考えられた……。
この思想は、西欧においては神への信仰が揺らぎはじめて以来の長い伝統を有するが(神への信仰が揺らいでいないのであれば、…そのような対立を解決するための思想は必要ではない)、わたしの専門である精神分析の思想に限って言えば、前章で述べたように、ユング、ライヒ、フロム、ホーナイなどがこの思想を代表している。
しかし、わたしに言わせれば、「真の自己」なるものはどこにも存在しない。個人の人格構造は相矛盾する様々な要素から成り立っている。「誠実で協力的な」要素も「残酷で加虐的な」要素も個人の人格構造を現実に構成している要素であって、その一方を「真の自己」、他方を「偽りの自己」の表現と見なすことは、一定の恣意的な価値基準にもとづいて個人の精神内容を狭く規定することであり、人格内部の抑圧体制を強めこそすれ、何か抑えつけられて実現を妨げられているものを実現することにはならない……。
ある欲望と対立するために「実現」されない欲望というものはたしかに存在する。しかし、欲望とは実体ではない。個人をある方向へと駆り立てるエネルギーといったものではない。欲望とは個人の人間関係、世界との関係のあり方の一つの形であって、個人が二つの対立する欲望をもっているということは、世界との関係の二つのあり方の間で迷っているということであり、その一方を選んだということは、そのような形で世界との関係をもったということであり、選ばれなかったもう一方の欲望のエネルギーがどこかに溜まっているわけではない……。
「真の自己」はなかなか実現されず、しばしば「深層」に埋もれていることになっているが、かりにそのようなものが存在するとしても、それは個人がその「真の自己」に沿った形で世界と関係しなかったということであり、それが「真」で、個人が現実に選んだ形が「偽」であるとする根拠はどこにもない。そのような考え方は、みじめでありふれた現実の自分は「世を忍ぶ仮の姿」であって、本当の自分は豊かな才能に恵まれた天才であるとか、「世が世であれば」こんな奴に土下座させているはずの高貴な生まれであるとかのナルチシズムの幻想に迎合し、個人の関心を他の人々との関係から切り離された架空の自分に集中させ、個人をますます他の人々に対して無関心に自閉的にし、ますます現実から逃避させることになりかねない。そこまで極端に誇大妄想的にならなくても、いつも現実の自分より何かちょっといい別の自分がどこかにありそうな感じがして、現実の自分をまともに引き受けないということにもなりかねない……。
「真の自己」の思想は、個人と集団との問題を一挙に解決するし、人々のナルチシズムに訴える魅惑的な思想なので、一部の人々にはまだその力を失っていないが、そして、欧米から伝わってきたこの思想はわが国でもとくいに心理療法家やカウンセラーのあいだでもてはやされているようであるが(カウンセリングの講習会などで「自己実現」とか「隠された能力の発見」とかのテーマがとりあげられないことはめったにはない)、そのようなどこにもありもしないものに自我の支えを求めても無駄であるだけでなく、危険であるというのがわたしの考えである。