佐倉さん、初めまして。私は、向と申します。幸福の科学の会員です。
先日幸福の科学の会員の方がやっておられるHPをたまたま発見してそれをみておりましたら、その会員の方(梅本さん)と佐倉さんの論議が掲載されていまして、それをきっかけに佐倉さんと色々な方が議論されているのを「来訪者の声」から注意深く拝読させて頂きました。特に、梅本さん、takapさん、笠原さんとの議論は全ページコピーして読ませていただきました。そのなかで、自分の考えも色々と考える機会を与えられました。このような機会を頂きましたこと、佐倉さんに深く感謝する次第です。ほんとうにありがとうございました。
霊魂やあの世の世界ということが一つの大きなテーマであったようです(私が読ませていただいたものがそういうものだったということですね)。そのなかでの佐倉さんのお考えの中で私が理解させていただいたのは、結局ブッダは、このような形而上学的なことを云々するのは愚かなことであって、自分は自分の認識の及ぶ範囲で物事を考え、「苦」を克服するのだ、という立場であった、ということと、この考えは、そのまま佐倉さんのお考えとして当てはまることである、ということです。これでよろしいですか?
そこで、私は佐倉さんと議論するつもりはないのですけれども、一つ質問させていただきたいのです。佐倉さんご本人のことになりますので、もし失礼に当たるようなことがあったり、「沈黙」を守りたい、ということであれば、答えて頂かなくても結構です。
人間は、毎日の生活の中で、絶えず複数の選択肢の中から一つのものを選び出すことを要求されていると思うのです。たとえば、ある人(Aさん)が別の人(Bさん)に会ったとします。このとき、Aさんには、Bさんにどのように接するか、ということに関して無数の選択があるわけです。いきなり抱きついても、あるいは殴りかかっても(!?)いいわけですね。そうした選択を迫られるとき、人は一つの基準に基づいてその選択をなすのだと思います。私の場合は、幸福の科学の大川総裁が本の中で言っておられることを中心にいろいろな書物から得た知識、そして自分自身の経験をもとに、自分自身の幸福と他人の幸福がともに達成されるという方向を常に目指す、というのが、何か選択を迫られたときに、最終的な拠り所としてもっている基準なのですが、佐倉さんの場合、色々なものを読ませて頂いても、このへんがちょっと見えてこないのです。
そこで、おたずねします。佐倉さんが、こうした日々の生活のなかで選択を迫られるとき、実際にその判断のために持ってくる基準は、何ですか?人と会うとき、なにか物事を始めようとするとき、その他色々あると思いますが、何を基準にされますか?基準とするものの中で、一番根底にあるものを出来るだけ簡単な言葉でお答えいただければ、ありがたいとおもうのですが。
以上です。
2000年1月8日
今日は、佐倉さん、向と申します。ご存じかと思いますが、私は幸福の科学の会員です。
鈴木さんから寄せられた御意見に対する佐倉さんの反応をみさせていただいて、真理を探究していく上で、一つの一貫した態度をとられているのだな、ということを感じまして、感銘を受けました。
あなたが他のところで述べられていることをみていますと、霊だのあの世だの神だのを云々することは、それ自体が人間の認識を越えたものへの探求に足を踏み入れているものであり、しかし所詮認識の及ばない世界であるから、そのことをどうのこうのと議論したり、そういうことを人生の一つの基盤にすえて生きていったりすることは、それ自体が愚かなことであり、無益なことである、とあなた自身も考えておられるのかと思っておりました。
しかし、鈴木さんのような方の霊的実体験に基づく意見にたいし、それを「おろか」と切って捨てるのではなく、重要な意見として興味を示されているのをみて、あなたは必ずしも霊やあの世というようなことが、人間の認識を越えたものであり、従ってそういうものがあるとして、その描写やそれをもとにした人生観の確立を述べる宗教家やその他の人々はすべからく、わからないことをわかるとしている「ウソツキ」である、と断じているわけではない、と感じました。
あの世という世界に関する信頼に足る情報をもたず、漠然とそういう世界があることを信じ、地獄に堕ちるのではないのかと日々恐れ、そして悩みの虜になっている人がいるとしたら、あなたが、そんなことよりまず目の前のことを片づけましょう、そして幸せになりましょう(もっとも、あなたの考えの中からすでに「幸福」ということばすら、忘れ去られているようですから、これは誤謬である、といわれるかもしれません・・)といいたい気持ちになるのは、理解できますしある程度の共感も感じます。
これからのさらなる御健闘をお祈りいたします。
2000年1月8日
今日は。向です。サイトが休みの間に3つもメールを送ってしまい、申し訳なく思っています。興味を持ったことはすぐ行動に移さないと忘れてしまうのです。ですから、ご容赦下さい。
このメールが最初に読まれるかも知れませんので、同じ事を繰り返すことになりますが、私は幸福の科学の会員です。
「ブッダと大川隆法」を読ませていただいて、「なにかいうべきだろうか」と考えておりましたが、どうしても一点見逃せないことがありますので、そのことについて意見を述べさせていただきます。
あなたとtakepさんとの議論を大変興味深く読ませていただいたのですが、そのなかで私がつくづくと感じましたことは、資料主義の限界というものです。
私には、あの議論ははっきりいってまだ決着がついていないように思われます。あなたたちが互いに自分の主張の根拠を示すために提示しておられる資料をみて、個人的には、幸福の科学の会員であるという立場を抜きにしても、takepさんの主張の方に説得力があるように感じるのですが、あなたはそれでも頑として自分の主張を譲らない。しかし、所詮は2000年以上も昔に釈迦という方が、その弟子たちにたいして語った内容が、口頭で人から人へ伝わり、色々な言葉に翻訳され、伝わってきたのがあなたのいう仏典であると思います。
昔の人は書く習慣がなかった(「紙」がなかった)ため大変記憶力が優れていたという話を聞いたことがありますが、それでも多少心もとない感じはします。「ブッダはこのような意図でこのような話をされた」ということを断定するためには、今の時代でどれだけ資料を集めたとしてもまだまだ不十分である、と思うのです。
従って、あなたたちが資料に基づいての議論をする場合には、それぞれの解釈、意見、主張は出てくるでしょうが、「ブッダは間違いなくこういう意図のもとにこういう話をされた」と言い切ることは不可能である、と私は考えます。この意見に同意されるのであれば、もう少し先までお読み下さい。
高橋俊彦さんとの議論も読ませていただいたのですが、その最後の方のやりとりのなかで、あなたは、
・・・「ブッダと大川隆法」として発表することになりました。大川さんの思想が、ブッダの思想とは根本的に異なるものであることが分かると思います。といっておられます。「私の考える、あるいは理解したブッダの思想と・・」とせず「ブッダの思想と・・」となっているところから、少なくともこれを読む人間には、「ブッダはかくのごとくの意図のもとにかくのごとくの発言をしたのである」ということをあなたが確信するということを越えて「知っている」、というふうに理解されます。しかし、あなたはブッダではありませんし、2000年も昔にインドでいきておられたブッダの心の奥深くに意図されていたものを分かり切ることは不可能であると思います。私が今この文章をいったいどのような意図で書いているのかさえ、あなたには分かり切ることは出来ないでしょう。ましてや、2000年も昔にインドで悟りを開き、教えを広め、そして長い間偉大なる方として多くの人々に尊敬をうけてきた釈尊の意図するところを「分かった」と言い切り、まるで彼の代弁者のごとくに彼の思想を伝えているのだ、というようなことをあなたが平然と言ってのけるのであれば、私はあなたの真理の探究者としての良心を疑います。真理の探究者としての良心、として私がいいたかったことは、自分にわからないことはわからないとして、それを理解するために、謙虚に探求をすすめるという姿勢のことです。
前述の高橋さんとの議論の中における発言や、「ブッダと大川隆法」におけるあなたの発言全般をみるにつけ、少し謙虚な姿勢が欠けている、と私にはどうしても感じられます。
あなたが、「私は真理の探究者としての良心に基づき、今も探求をつづけている」という姿勢をお持ちならば、私は、ささやかなことですが、あの論文のなかの表現の訂正(私の勉強した限りでは、私の理解できる範囲では、など)を、あなたに要求します。
以上が、幸福の科学の会員としていっておかなければならない、と私が感じたことです。
(1)「最終的な拠り所」「一番根底にあるもの」
自分自身の幸福と他人の幸福がともに達成されるという方向を常に目指す、というのが、何か選択を迫られたときに、最終的な拠り所としてもっている基準なのですが、佐倉さんの場合、色々なものを読ませて頂いても、このへんがちょっと見えてこないのです。「最終的な拠り所」「一番根底にあるもの」という考え方は、わたしが「積み木型のモデル」と呼んでいる思考方法です。土台がしっかりしていなければ、全て無駄だという考えです。神などの超越的権威を崇拝する信仰者に共通してみられる思考方法です。わたしはそのような思考方法を取りません。「最終的な拠り所」や「一番根底にあるもの」を信じていないからです。なぜ、そのようなものを信じていないかといえば、それは単なる盲目的信仰にすぎないからです。わたしは自分の行動の選択判断を盲目的にしたくないのです。そこで、おたずねします。佐倉さんが、こうした日々の生活のなかで選択を迫られるとき、実際にその判断のために持ってくる基準は、何ですか?人と会うとき、なにか物事を始めようとするとき、その他色々あると思いますが、何を基準にされますか?基準とするものの中で、一番根底にあるものを出来るだけ簡単な言葉でお答えいただければ、ありがたいとおもうのですが。
お聞きしますが、どうして、向さんは、「自分自身の幸福と他人の幸福がともに達成されるという方向を常に目指す」ことを「最終的な拠り所」「一番根底にあるもの」とされたのですか、そこにはそうされたところの何らかの合理的な理由・根拠がありますか。もし、そこに何らかの根拠があるなら、その根拠の方こそが、「より最終的な拠り所」「より根底にあるもの」であって、「自分自身の幸福と他人の幸福がともに達成されるという方向を常に目指す」ことは最終的なものではなくなるでしょう。そうではなく、もし、あくまでも「自分自身の幸福と他人の幸福がともに達成されるという方向を常に目指す」が「最終的な拠り所」「一番根底にあるもの」であると主張されるなら、その下にはさらなる土台(さらなる根拠)はないことを認めておられるわけですから、「自分自身の幸福と他人の幸福がともに達成されるという方向を常に目指す」という判断には、実は、それを支えているなんらの根拠や理由や合理性もない、ということになるでしょう。つまり、盲目的な判断だということです。
なお、「積み木型のモデル」の問題については、「真理と論理、および真理の根拠」を参照して下さい。また、わたしが、幸福を追求することはナンセンスであり不毛な努力である、と考えていることについては、「幸福の追求」や「作者より識さんへ」を参照して下さい。
(2)信仰と知識
あの世という世界に関する信頼に足る情報をもたず、漠然とそういう世界があることを信じ、地獄に堕ちるのではないのかと日々恐れ、そして悩みの虜になっている人がいるとしたら、あなたが、そんなことよりまず目の前のことを片づけましょう、そして幸せになりましょう(もっとも、あなたの考えの中からすでに「幸福」ということばすら、忘れ去られているようですから、これは誤謬である、といわれるかもしれません・・)といいたい気持ちになるのは、理解できますしある程度の共感も感じます。わたしの(クリスチャンとしての)経験から言えば、あの世や魂を信じる人々は、「知識ではなく信仰による」という立場の人が圧倒的に大多数です。初期のキリスト教父たちの思想から内村鑑三の思想に至るまで、「知らないけれど信じる」というのが彼らの立場です。仏教でも、親鸞や法然のいう「信心」はそのようなものです。如来のみはからいによって信じるこころをいただくというのが彼らの立場でした。彼らは決して「あの世を知っている」などという大言壮語はしませんでした。そこに彼らの知的誠実さがあります。
しかし、世の中には、あの世や魂を「知っている」と主張する人々がいます。「魂は半透明」だとかいう鈴木さんがそうであり、自分があの世からやってきたという幸福の科学の教祖大川さんもそうです。そこで語られているあの世の姿は、わたしには、はなはだ荒唐無稽でばからしいものに見えますが、人間の経験の届かない事柄については、(それが真理であることを証明するものもない代りに)それが間違いだといえる根拠もありません。だから、それらについては、どんなデタラメでも語ることができます。
(3)「あなたに要求します」
「私の考える、あるいは理解したブッダの思想と・・」とせず「ブッダの思想と・・」となっているところから、少なくともこれを読む人間には、「ブッダはかくのごとくの意図のもとにかくのごとくの発言をしたのである」ということをあなたが確信するということを越えて「知っている」、というふうに理解されます。しかし、あなたはブッダではありませんし、2000年も昔にインドでいきておられたブッダの心の奥深くに意図されていたものを分かり切ることは不可能であると思います。・・・あなたが、「私は真理の探究者としての良心に基づき、今も探求をつづけている」という姿勢をお持ちならば、私は、ささやかなことですが、あの論文のなかの表現の訂正(私の勉強した限りでは、私の理解できる範囲では、など)を、あなたに要求します。複数の人が登場する文章の場合では、「わたしの解釈では・・・」とか「あなたの解釈では・・」とか「彼の解釈によれば・・・」などと書かなければ、誰の解釈か分かりませんが、ご指摘の拙論では、それがわたしの解釈であることは読者にとって明らかです。したがって、わざわざ「わたしの解釈では・・・」「私の勉強した限りでは・・・」「私の理解できる範囲では・・・」などということを言う必要はないと思います。いちいち言わなくてもそんなことは当たり前だからです。神の顕現として大川さんがものを語る「幸福の科学」の中ではどうか知りませんが、論文や手紙に著者名を記しておけばそれで足りるというのが世間の常識であって、全てのラインを「わたしの解釈では・・・」で始めるのは、文として劣悪なものとなり、読むものをしてうっとおしく思わせるものとなるのではないでしょうか。
(4)仏典の価値
「資料主義の限界」については、おっしゃるとおりで、私たちがそれによってブッダの思想を完全に突き止めることは不可能でしょう。しかし、仏典として残された資料や考古学的情報だけが、歴史上のブッダの思想に迫ることのできる、わたしたちの唯一の手段です。したがって、ブッダの思想について語るなら、少なくとも、仏典として残された資料から語らねばなりません。そうでなければ個人の単なる空想にすぎないからです。
幸福の科学の大川さんは、もともと、GLAという新興宗教から出発しているので、GLAの教祖高橋信次さんの教えと同じように、仏教はあとからその教義に取り入れられた二次的なものになっています。そのために、自分たちの教義に合うように仏教を解釈しようと無理をしているので、その教えは仏教としてはとても荒唐無稽なものとなっています。大川さんの教えは仏教とはほとんど何の関係もないことが、仏典を読めば読むほど明らかになっていきます。したがって、幸福の科学が「仏典を信用するなと」その信者に教え込もうとするのはよくわかります。仏典は大川さんの教えがニセ仏教であることを示してしまうからでしょう。