初めまして、識と申します。 身分は現在しがない専門学校生です。
ついでに経歴は、熱心な創価学会員の家庭に生まれ、中学で世の中と自分が無意味なことがあまりに多いと感じ、耐えられなくなり自殺しかけ、高校で無駄に一生を終わってもイイやと悟り、卒業近くなって、ある作家ののミステリィと岸田秀氏の著作を読んで、「何だ、全部意味がないんだ」と更に悟りを進めた上に、迷惑にもこの二人を人生の師と仰ぎつつ、恋愛と学究をして「意味無いけど愉しいことはいっぱいあるね」と今はこのまま愉しいことをして生きていくつもりです。 ちなみに、高校は電子制御系、専門学校は流行の生命工学と、無軌道で行き当たりばったりな二十歳です。
さて、あなた様のホームページでは、感心しっぱなしです。はい、ネット上で感激したウェブサイトは二つ目です。もう一つはこちらですhttp://www.degas.nuac.nagoya-u.ac.jp/people/mori/index2.html。
あまりに膨大なので、全てのページを読んだわけではありませんが、幾つかの論文、来訪者のページの一部を拝見しただけで、言いがかりかもしれないですが「仲間だ」と思いました(笑)。
どこら辺を見て「仲間」と感じたかというと、
1.言葉を全面的に信用していない。 2.盲目的な幸福の追求を止めた 3.全てを説明しない 4.限界を知っているとなりますでしょう。もちろん全てではないですが。
説明させていただきますと。
1.言葉を全面的に信用していない
これは僕が、人間が創り出した最大の道具とは「言葉」である、と考えているから重要視しています。 不完全な人間が作ったからには、作られた道具である「言葉」も不完全だ。という説明理論を使うと、おそらく、佐倉さんに突っ込まれることでしょう(笑)。僕の考えた論理は全く別です。
「言葉がただの記号である」というのが理由です。それは受け手によって、全く別の解釈を生み出す可能性を持っていると云うことから、導き出せると思います。 例を挙げてみましょう。まずは名詞の「犬」という単語があります。ここでフツーは「ネコ目イヌ科の哺乳類である犬」を連想すると思います。しかし、フツーじゃない人は「権力の手先、スパイ、奴隷」という人々を連想するかもしれません。これは、言葉が一義的ではない言葉自体の問題と、受け手における個性によるものが関連しています。また、フランス語を理解できない浅はかな僕に、フランス語で喋られてもそれこそ意味が通じません。また、フランス語を通訳してもらったところで、フランス語と日本語の間には、かなりの言語的な隔たりがあると思われ、通訳者の語彙にない「適切な日本語」は失われます。また同じ現象が、個人の言動にも起こりうると思います。感情を例に取れば、「怒り」であれ、「喜び」であれ、本人は言語化する必要はありません。それを人に説明したり、日記に書いたりする必要があるときだけ、言葉に次元を落とし単純化しているだけだと思います。よく云いますね「言葉にならない」って。本当に感動した本や映画や体験には、僕は「感動しました」としか云えませんし、他の言葉にしたとたんに陳腐なものになってしまいます。ですからほとんどの言葉は「定性的」であり「定量的」にはなりません。もちろん、「神」「綺麗」「莫迦」「怒り」「私」も全て定性的なものであって、各個人に依って、その定義にばらつきがあるでしょう。その実在とは遊離した、誰かに(他人であれ、神であれ、自分であれ)主張するためのものです。ですから、言葉は実在を正確に模写することは出来ません。犬の説明をどれだけしても実物の近似は想像できても実在の犬は想像できません。
(ただ、科学では、全ての言葉を非常に細かく定義します。たとえば、生物学の教科書のはじめの章は「生物とは何か」であることが多いと思います。その言葉を社会一般で使われている曖昧さから、離脱させることが「科学用語」として成立させるからです。)
言葉は実在を表していない。だから、僕は言葉を使い、利用してはいますが、全面的に信用していません。おそらく、この文章を読んだ人にも、僕の意図があまねく伝わる、などとは思っていません。それは佐倉さんも同じではないでしょうか?だからこそ、来訪者のページを使って、補うことをなさっているのだと思いました。
2.盲目的な幸福の追求を止めた
これは、恋愛をして幸福を得ることで、苦悩の元凶も得ているのが実感できたからです。それまでも「幸福を求めれば、苦悩する」というのは何となく判ってましたし、手塚治虫の「ブッダ」を読んで頭では判ってました(「ブッダ」はいま読んでも泣けてきます)。しかし、僕は「ブッダ」を尊敬していますし、「仏教徒(仏の教えの徒)」を自称してはいますが、自分で選んだ幸福のために苦悩するのは悪くないと思っています。このやり方なら、苦悩するのは自分の責任であり、いつでも苦悩から解き放たれることが出来ます。まあ、何にもないのはつまらないから、人生に起伏が欲しいだけ、とも云えますが(笑)。もっとも、多くの人は幸福であることが、「絶対に良い」と思っているようですが、さて、幸福を感じたことがあるんでしょうか?「幸福」って、どんな実体があるんでしょうね?意外とどんな人の身近にも幸福が転がっていて、夏場に起き抜けの麦茶とか、徹夜でする読書とか、中古で買ったCDとか、ケーキの食べ放題とか、異様に長いメールを人に一方的に送るとか、いろいろありますよね。現状を受け入れるのは、「幸せ」って心から云うのに大切だと思います。
3.全てを説明しない
こりゃ、科学者や哲学者としては当然ですけど。説明できることしか、説明しない。もう、当たり前すぎて、涙が出ます。でも、これが一般では当たり前じゃない。全てを説明してほしがるのが「信者」と呼ばれる人に多いと思います。まあ、似非精神分析者としては「不安である故に嘘でも納得したい」と説明しますが、これは推論であり、しかもはなはだ論理的でなく、仮説の域を出ないのであり、僕が納得するためのただの物語です。そういう物語は、自分にとっては有益でしょうが、他人に教える場合は、不利益をもたらすこともあると思いますから、注意が必要でしょう。特に、他人に強要したりするのはもってのほかですね。
4.限界を知っている
人間は不完全な生き物であり、その一員である佐倉さんも、一員である可能性の高い僕も(もしかしたら思いこみかも!)、限界があります。思いを馳せることは出来ても、証明できないなら、それは、真理でも真実でも事実でもあり得ません。当然ながら、人間の知識体系である科学さえも限界があり、全てが仮説でしかありません。数学で「不完全性原理」というものがあるそうです。数学には疎いので、「ある系を真と証明することは、その系の中では出来ない」とぐらいしか理解していません。もちろん、「偽」であることも証明できないでしょうね。つまり、人間はある前提を伴わない限り何も証明できないのです。
さて、僕は齢十九にして非常に有益な(僕にとって)思考法を得ました。それが以上4つの項目を導き出したと云って良いでしょう。それは、「ある問の答えを求める前に、その問の正当性(必要性)を求める」というものです。僕がこの思考法で解いた最初の問いは「人の人生には意味があるのか?」というものでした。この問いはそれまでは「無い」という一部の人には絶望的な答えでしたが、「なぜ、人生に意味が必要なんだ?」という反問によって、「意味が必要なのは、ただ自分が無意味ではありたくない、誰かに(恋人でも神でも社会にでも)必要とされていたいと思うからであり、それによって得られるのは誰かの評価を気にして、ただただ自分を殺すことになるだろう」という答えを出し、人生の意味から解放されました。また、「意味とは何か?」「人生とは何か?」とも問い、結果「人生とは人の一生であり(当然)、そこに意味を求めるのはお門違いだ」「意味とはそれを付加する者によって成り立っているのであり、各個人によって共通の意味など存在しない」となり、同様に「有益な人生」と「現状の自己が付加した意味以外を求める」から解放されました。この思考法は佐倉さんの紹介されるブッダの思考法に近いものではないか、と自負しております。もちろん、ブッダ本人に聞けないので推論の域を出ませんが。しかし、時には推論の方が愉しいものでもあります(笑)。
そして、自称仏教徒である僕がブッダの教えから得たのは現状を受け入れることです。自分より大きな靴で、靴擦れを起こすように、現状に見合わない理想は、現実と理想の間で激しい摩擦を起こすでしょう。そしてもう一つは、今の自分自身を受け入れる。「本当の自分」とか「真の自己」なんて云うものはちゃんちゃら可笑しいです。「じゃあ、あんたは誰だ!」と云いたいですね。
恋人が「エホバの証人」でして、学校を卒業後、聖書研究をする事を約束しました。これも、「彼女との幸福」の為の苦労ですが、この幸福に拘泥するのはより辛いことになるので、聖書の間違いシリーズを活用させていただきたいと思っています。彼女と、その兄弟姉妹がどう反応するか良く見極めたいと思います。もちろん、彼らが正しいと思ったら、今までの考えに拘泥するのも馬鹿ですので、これから先どうなるか判りませんが、どうにかなるでしょう。そう、何事も、どうにかなるんです。そして、少しぐらいなら、どうにか出来るのです。努力って、大切ですね(笑)。
『万物は流転する、理(ことわり)の机上で』これが僕の座右の銘です。 理とはブッダの云う縁と置き換えても差し支えありません。万物は影響しながら、流転していくのです。あるのは入力と出力でのみであり、実体はなく、「理」という方程式しかないと思っています。ただ、方程式の各項は全て平等です。そして、ただ一つも欠けることは許されません。僕にとって、この世界にいる最大の誇りは、この理の中の「項」の一つであることです。僕自身の希望的観測ですし、やはり推論になりますが、ブッダが全ては無常であると悟っても、絶望しなかったのはこのためではないかと思ったりもします。一歩間違うと汎神論になりかねませんが、「項」の一つである価値は全くありませんし、全ての「項」に価値のヒエラルキーはありません。ただ、「ここに存在している」事が、自分にとって悪い事じゃないと思えてくるだけです。
突然の長文と乱筆失礼しました。
(1)言葉の虚構
言葉を全面的に信用していない・・・・「言葉がただの記号である」というのが理由です。言葉はコミュニケーションのために作り出された道具であり、記号にすぎない、というのはまさにその通りだと思います。しかし、まさに、その事実を逆手にとって、言葉によって虚構の世界を意図的に作りあげ、わたしたちを遊ばせてくれるのが、言葉の芸術(文学)ということになるでしょう。人間はしたたかな動物です。ころんでもただでは起きません。
(2)幸福の追求
自分で選んだ幸福のために苦悩するのは悪くない・・・これは、「幸福を得ることで、苦悩の元凶も得ているのが実感できた」人にだけに語れる、いい言葉です。幸福と苦悩とはコインの表と裏、一方を否定して他方だけを得ることなどできません。これさえ理解できればすべての新興宗教はその存在価値を失ってしまうのでしょうが、相も変らず新興宗教は今日も幸福のエサをぶら下げて商売繁盛です。
(3)説明と宗教
説明できることしか、説明しない。もう、当たり前すぎて、涙が出ます。でも、これが一般では当たり前じゃない。全てを説明してほしがるのが「信者」と呼ばれる人に多いと思います・・・「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。」(ヴィットゲンシュタイン、『論理哲学論考』)
「人間の考えはさまざまでありますが、いずれの考えを取るにしても、あの世の世界、死後の世界に対する無知、こうしたものがその基礎にあると私は考えます。ところが、これが学問として確立していないがために、人びとは困ることになるわけです。そこで、私は、これをすべてに人にわかる範囲で、できるだけ明確に、できるだけの知識を総動員して、水先案内人としての自分の使命をはたす必要があると考えるのです。」 (大川隆法、『永遠の法』17頁)
(4)知識の根拠と信仰の動機
人間はある前提を伴わない限り何も証明できない・・・すべて知識として成立しているものには、それを知識として成立させているいろいろな根拠(論理的前提、観察や実験のデータ)があります。おっしゃる通り、知識はその根拠の条件のもとにおいてのみ、仮に「真理」であるとされているにすぎません。信仰を成立させているものには、そのような根拠さえなく、ただ御利益(救い)を得るための動機だけが信仰を成立させているようです。
(5)質問の正当性
僕は齢十九にして非常に有益な(僕にとって)思考法を得ました。・・・それは、「ある問の答えを求める前に、その問の正当性(必要性)を求める」というものです。信仰者の質問には、初めから彼らの信仰に都合の良い回答が出るような仕方で組み立てられている場合が多々あります。たとえば、「人間や世界はなぜ存在しているのか」とか「人間や世界が存在している目的は何か」などという質問はその典型的なものと言えるでしょう。ところが、存在目的を問う質問は、すでに、その質問自体が人格的存在(神)を暗黙のうちに前提にしています。なぜなら、動機と意志を持つものだけが目的を生み出すからです。この種の質問は、質問自体のなかにすでに偏見(動機と意志を持つ人格的存在者を想定している)が内包されているわけです。 「問の正当性(必要性)を求める」のは非常に大切なことだと思います。
(6)エホバの証人
恋人が「エホバの証人」でして、学校を卒業後、聖書研究をする事を約束しました。わたしは、「エホバの証人」の人たちとおつき合いが長いのですが、彼らのいう「聖書研究」とは実は聖書研究ではありません。「エホバの証人」の出版物を学ぶのです。わたしは、何度か、「エホバの証人の出版物の結論はみな、聖書は神の言葉であるから聖書を学びましょう、ということになっているのだから、もうこれからは、聖書に関する書物(エホバの証人の出版物)ではなく、聖書そのものを勉強しましょう」、と勧めたのですが、受け入れていただけませんでした。聖書は難しいから、聖書をもとに書いてある説明書(エホバの証人の出版物)を読んだほうが良い、と言われるのです。そういうわけで、今日に至るまで、「聖書研究」という名のもとで、いろいろな「エホバの証人」の出版物(というより、どうしてこんなことを人間は信じることができるのかということ)を楽しく学ばせていただいています。
ところで、もちろんそれから、「集会にでてみませんか」ということになり・・・・愛と信頼関係で結ばれた信者の交流を実際に見て・・・わたしも感動して・・・エホバの証人の教えは真理に違いない、これは神の組織に違いない・・・と結論するはずになっているのですが、都合が悪いことに、「善人であるからといってその人の信じていることが真理であるわけでもなく、悪人だからといってその人の言うことが間違っているわけではない」、などとわたしは考えたりするものですから、彼らの敷いたレールの上をわたしは一向に歩かず、彼らをガッカリさせています。
ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳)