初めてメールを送らせていただきます。いやあ、みなさん熱心ですね。
ところで宗教に関するホームページを見ていると、いつも不思議に思うことがあります。どうして宗教否定の立場から、発言する人がいないのでしょうか(宗教のホームページだからあたりまえや、とのつっこみがあるかもしれませんが)。別に私は完全な唯物論者ではありませんが、科学[的]には、宗教という産物は、脳内で生み出されたただの妄想と、とる考え方があるはずです。なんちゅうこというねん!と、怒る人もいるかもしれませんが、物事を合理的に、論理的に考えれば、それが現在の所もっとも確率の高い思考だとおもうのですが、どうでしょう。
我々はオウム真理教を否定します(少なくとも圧倒的多数は)。しかしキリスト教の聖書の世界が科学的に完全に否定された(例えば進化論とか)現在においても、人々は聖書の誤りを無視して、聖書をひらげて神に祈りをささげるのです。(しかもその事に対する疑問も反省もせずに)今もオウムにしがみつく人を、はたして笑うことができるのでしょうか。
普通、間違った教えは、人々は信用しません。ただ、宗教はいかに誤りがあろうとも、人々は信じ続けるわけです。(すみません、仏教については詳しくないのでよくわかりません。でも、捜せば似たような事は見つかるかもしれません)
ですから私は疑問をもつのです。
以上乱筆乱文失礼しました。
山本格太
(1)「科学は宗教を否定するか?」
わたしの考えでは、答えは「ノー」です。なぜ、科学は宗教を否定できないのでしょうか。それは、信仰が対象としているところの多くのもの(神、霊界、永遠の魂、死後の世界、天国、地獄、等々)は、科学の認識能力の範囲の外側にあるからです。このことは、同時に、科学が宗教を積極的に肯定できる、という主張も否定します。
科学的知識は、実験や観察を必要とします。しかしながら、信仰が対象としているところの多くのもの(神、霊界、永遠の魂、死後の世界、天国、地獄、等々)は、実験や観察の対象になりません。そのために、これらに関しては、科学は宗教を肯定も否定もできないと思います。
(2)「ただの妄想」であったとしても
たとえ、信仰対象が単に信者の思い込み(妄想)にすぎないことがわかっているとしても、それだけで、妄想の対象が「無い」とは言えません。単なる想像だけで宇宙人が存在すると妄想しているとしても、妄想だからといって、宇宙人が存在しないとは言えないようなものです。
(3)宗教の欺瞞
このような事情のために、信仰が対象としているところの多くのもの(神、霊界、永遠の魂、死後の世界、天国、地獄、等々)に関する宗教の主張はほとんど無法状態です。これらの事柄に関しては、どんなデタラメを言っても、間違っていることが証明される可能性がないので、とてもばからしい状態になっています。たとえば、オウム真理教は幸福の科学の大川隆法教祖のことを「たぬきの生まれ変わりだ」と非難すれば、幸福の科学はオウム真理教の麻原彰光教祖のことを「石川五右衛門の生まれ変わりだ」、と非難するといった具合です。どんなにばからしい主張でも、間違っているとは証明できず、どんなにそれらしい主張でも、正しいとは証明できない、そんな無法状態が信仰の世界であると言ってよいと思います。
信仰者によっては、このような事実 --- 信仰とは単なる思い込みにすぎず、なんの客観的な根拠もないこと --- を素直に認める人々もいます(親鸞や内村鑑三)。しかし、しばしば、まるで自分で行って見て来たかのごとく、知識として語る人々(エドガー・ケイシー、麻原彰光、文鮮明、大川隆法、高橋信次、等々)もいます。信仰の対象にすぎないものを、知識の対象として語るとき、宗教は欺瞞(人をだますもの)であると言ってよいと思います。
(4)宗教が科学の領域にくちばしを挟むとき
ところが、宗教はときどき、歴史的事実や物理的事実について、主張することがあります。歴史的事実や物理的事実に関する主張なら、わたしたちは調べてみることができます。たとえば、聖書には太陽と月の創造期が地球の植物創造期よりも後に来ると書いてあります(「太陽の創造時期に関する間違い」)。あるいは太陽の運行が半日ストップした、などということも書かれています。これらはあきらかにわたしたちの科学的認識と相違する主張です。このように、宗教が科学の領域にくちばしを挟むときには、科学は宗教の主張を吟味し、間違っているならば、たとえ科学者の目から見れば、あまりにも、ばからしいような主張であっても、できるだけわかりやすく、根気強く、時間をかけても、説明をしてあげる親切さが科学者に必要だとわたしは思っています。