佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


金子悦二さんより

98年2月8日

平和の祭典、長野オリンピックが開幕しました。それはそれとして良いのですが、最近の中学生の凶悪事件について頭を痛めています。

私は2,3年前のいじめ自殺の問題も根源的原因は同じだと思うのです。とにかく学校教育だけの問題ではない。家庭教育とりわけ家庭のしつけの方法、および社会に問題があると思うのです。

1つには彼等の両親、つまり我々の世代か又はそれより若い両親の世代に問題がある。例えば彼女の家庭をみれば良く解かるのですが、親と子がまるで友達なのである。親として子供に、して良いこと悪いことを教えるのではなく、同一次元で遊んだりけんかしたりするのである。そして子供が欲しいものは何の我慢もさせることなく次々と買い与えるのである。

もう1つには社会の問題がある。ホラービデオなどが簡単に入手できる。インターネットだって良いとばかりは言っておれない。それに毎日のニュースで社会の指導的立場にあるものが悪いことばかりしている。

ここに昨年7月30日読売新聞の論点に大島清京都大学名誉教授(大脳生理学)が少年犯罪「心の病理」と題した論文があるのですが、その中に次のような記述がある。

こうした現象を引き起こすのはホラービデオだけとは限らない。例えば、今年は「たまごっち」と呼ばれるゲームが大流行した。このゲームでも、リセットボタンを押すとペットが死んでしまう。現実感覚が正常に働けば問題はないが、現実の死とゲームの中での死を区別する感覚が失われていくと、現実と仮想がないまぜになる「バーチャル・リアリティー」(仮想現実)の世界にはまり込んでしまう。そうなると、人間を無機的に扱ってしまう恐れが出てくる。
うまく言えませんが、あなたの見解を待ちます。では又。


作者より金子悦二さんへ

98年2月14日

わたしは、すでに、いじめ自殺に関する問題においても述べたように、犯罪の責任を環境(社会、学校、家庭など)のせいにする考え方には反対です。犯罪の責任は本人にある、というのがわたしの基本的な考えです。

わたしがそう考えるのにはいくつかの理由があります。まず、同じ環境にある者がすべて同じ様な犯罪を犯すのなら、確かに、環境を犯罪のせいにしてもよいかもしれませんが、実際は、同じような環境の中にいても、そんな犯罪など犯さない者が圧倒的に多いのですから、犯罪の責任は当人の選択にあったと言わねばなりません。自分が住んでいる環境をいかに解釈し、それに対していかに対応するかは、まったく本人次第であって、だれもそれに干渉することはできません。これが第一の理由です。

また、もし、人間の行為が環境によって決定されるとするならば、わたしたちは、犯罪防止のためには、なにもできないことになります。たとえば、もし、こどもの犯罪の責任は親の家庭教育が問題であるとすると、そういう親をうまく家庭教育出来なかった親の親の責任問題になるはずです。そうすると、その責任問題は、こんどは親の親の親が悪かった、ということになり、この考えを徹底させれば、こどもの犯罪の責任は無限の過去に遡ることとなり、結局、問題は解決不可能という結論になるでしょう。

同じ問題は、ビデオやゲームなどの社会環境に責任を転嫁してもおこります。もし、こどもの犯罪がビデオやゲームにあるとするならば、ビデオやゲームを作った人々に責任があることになりますが、そうすると、いったいどんな社会環境が彼らをしてそんなビデオやゲームを作らせたのか、という問題となり、犯罪責任の転嫁は、環境を作りだした環境、またその環境を作りだした環境の環境というふうに、無限に社会全体に広がり、おそらくは、宇宙全体が悪いのだ、というところにしか行き着かないでしょう。

したがって、犯罪の責任は当人にあるのだ、という考え方のみに、問題解決の望みがある、という結論になります。これが第二の理由です。

さらにまた、犯罪の責任は当人ではなくその環境にある、という考え方が、社会一般に蔓延すると、いったいどうなるかを考えてみるとわかります。まず、犯罪人を罰するということがなくなります。犯罪人にはその犯罪の責任はないのですから、彼を罰することは理屈に合いません。また、責任感などということも、当然、人々の意識からなくなります。そうなると、その社会は、結局、ひとは何をしてもよい、という無法状態に陥ります。何をしても、当人の責任ではないからです。すなわち、犯罪問題の解決をもとめて、その原因を環境に求めることは、実は、結果的に、犯罪増加に荷担することになるのです。これが、第三の理由です。

もし、今日、少年の凶悪犯罪が、他の時代に比べて、特別に多いとしたら、それはおそらく、少年の凶悪犯罪の責任は当人にはない、という考え方を今日の日本社会に垂れ流す大島清京都大学名誉教授のような無責任な学者がいるからかもしれません。

罰を厳しくすれば犯罪がなくなるわけではありませんが、犯罪人は捕まえ、犯罪内容に見合った処罰を与える。危険な犯罪人は一般社会から隔離する。人類社会は、何千年も昔から、それ以外の犯罪対処法を知りません。そして、それをちゃんとやってきた社会は存続してきたのです。そして、それをこれからもちゃんとやっていく社会は存続していくでしょう。

逆に、大島清京都大学名誉教授のような無責任な学者の言葉にだまされて、「たまごっち」やその他のゲームなどに犯罪責任を転嫁するような社会は、やがて自滅して、歴史から消滅してしまうことでしょう。

佐倉 哲