狸さんの11月23日の「一言いわせてください」にお答えします。
(1)
私は引用の最後にTHE FIVE GOSPELSをあげました(「アビアタルとアヒメレクを取り違えたマルコ」参照)。 この書物は日本ではあまり知られていませんが、数十人の欧 米の新約聖書学者の討論の末、福音書にあるイエスの言葉が イエスのものか推定しています。 細かい部分には(トマス福音書の扱いや聖書の成立等)には 不満が残りますが、少なくとも聖書を云々するなら目を通しておくべきです。内容が不満であるのなら著者であるTHE JESUS SEMINARに対し学術的に反論をすべきでしょう。「加筆」をすぐ口にする本一般について言ったつもりで、特定の本について言っているのではありません。「聖書を云々するなら目を通しておくべき」本は聖書であり、その他は、その人の問題や興味に合った本を読めばよいと思います。
(2)「安息日と麦畑」
「ダビデ」以下の話は安息日だったかどうかわからないし、 空腹だから麦の穂を摘んでいたのかどうかもわかりません。 ですから読んでいて不思議な気がするのです。
マルコ2:26以下においてパリサイ派が「安息日なのに、してはならないことをするのか」と言う「してはならないこと」は何かという点がまず問題です。これは福音書に直接書かれていません。通常は後世のユダヤ教の文献をもとに、安息日の収穫などの労働と見なされたのだろうと推定します。しかし、それだけでは、なぜイエスの答えが安息日ではなく祭司の問題に飛躍するのかは説明できません。
神殿崩壊前の状況として、神殿祭司には2つの主流の家系、サドカイ派とボエトゥス派があったとラビ文献は言っています。これらのグループとパリサイ派の関係は単純ではありません。そもそも、自らパリサイ派と名乗ったグループは存在しないと思われるからです。J.ボウカーは、パリサイ派は後世の資料において hakamim(賢者)と言われている運動と同定され、イエスの時代にはperushim(分離主義者)として過激化していく過程にあったとしています。
当時の祭儀に関する論争の一つに「オメル(麦の束)」と五旬節の日付けに関するものがあったと推定されています。レビ記23:9〜21に関して、ボエトゥス派は、「オメルは安息日の次に刈り取るべきだと」して安息日の刈り取りに反対し、反対者はレビ記23:5に従う日付けで行うべきだとしました。「反対者」の方法では祭司が執行し、安息日にも刈り取りができます。パリサイ派は「反対者」に賛成の立場であったと推定されます。「安息日の刈り取り」をいつ誰がするかは、この議論に直接関与するもです。
ミシュナには、安息日に「禁じられている主要労働は四十に一つたりない。種をまき、耕し、収穫し、束ねる物。脱穀し、ふるいにかけ、より分ける者。...」とあり、確かに弟子達の行為は「収穫」、「脱穀」と見なされた可能性があります。しかし、今日の常識では過剰と思えるパリサイ派の反発やそれに対するイエスの答えは、レビ記23:9〜22と上記の安息日の「刈り取り」についての祭儀に議論があったことを考慮すると分かりやすいものとなります。
まず、イエスが、祭司以外は食べることのできない供えのパン(レビ記24:5〜8)をダビデの従者が食べたことを例にしています。ここでイエスが「祭司以外」のものしか食べることのできない「供えのパン」を引き合いにしたことは唐突な印象を受けます。しかし、パリサイ派が、安息日に祭司だけが執行できる「刈り取り」という祭儀をイエスの弟子がしていると見なしたと仮定すると、イエスの答えがなぜ祭司について触れているかが理解できます。
マルコ2:26と「祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパン」(マタイ12:4、ルカ6:4)との並行記事には、弟子達の行為の問題点が「祭司」に関係があったことを示唆しています。「腹がへったら供えのパンでも食べていい」と言っているわけではありません。
ルカの並行記事では、イエスは「安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならない」(マタイ12:5)と言っています。すなわち、”イエスの弟子達は祭司だから、安息日の神聖を冒しても罪にならない”、と言っているのです。「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」(マタイ12:6)の「宮より大きな者」はイエスと理解できます。つまり、”イエスの弟子は宮より大きな者イエスに仕える祭司だ、だから祭司しか許されていないことをしても良いのだ”と言っているのです。
最後の結論は、「人の子は安息日にも主」(マルコ2:28、ルカ6:5、マタイ12:8)です。ヘブル6:2の旧約聖書の引用を除いて、新約聖書では「人の子」はイエスのことを指しています。「イエスは安息日にも主だ」と言っているわけです。この文脈で「主」はヘブル語聖書の「主」すなわち神であるヤハウェのことです。それ以外に何が可能でしょうか?従って、イエスの弟子たちは「宮より大きな者」、ヤハウェであるイエスに仕える「祭司」なのです。
以上まとめますと、
1.イエスの弟子が麦の穂をしごいて食べていると、パリサイ派がやってきて、「安息日なのに、(祭司以外には)してはならないことをするのか」と抗議した。
2.イエスのパリサイ派にたいする直接の答えは2つあり、
(1)「わたしの弟子は(イエスに仕える)祭司だから、安息日に祭司しか許されていないことをしもよい。」
(2)「パリサイ派は、律法の精神を取り違えている。」
3.「わたしは安息日にも主(ヤハウェ)です。(弟子は祭司です。)」
ここで上記の「オメル(麦の束)」の議論は(祭司以外には)を解釈に挿入するために仮定しました。
「人の子は安息日にも主です。」が「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:27)と混同されて「人間が安息日の主だ」と解釈している本がありました。「人の子」を「人間」と誤解した結果です。