悪魔はどうして存在すると思いますか?神が造ったのでしょうか?「神である主が 造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」とあります。なぜ神は人 間を造る前に悪魔(蛇)を滅ぼしてしまわなかったのでしょうか?この蛇がいなけれ ば人間は誘惑されて罪を犯すことはなかったはずです。全知全能の神は人間が「善悪 の知識の木」から実を取って食べてしまうことを当然前もって知っていたのではない ですか?人間が罪を犯した責任は神にもあると思いませんか?
Kikuchi
悪魔の問題は大きな問題で、簡単に語り尽くせませんが、少しずつ読者の皆さんと、意見を交換してみたいと思います。今回はとりあえず、AK さんのご質問に関して、以下の三つの点についてわたしの考察を述べさせていただきます。
(1)蛇と悪魔
聖書に関して言えば、エバを誘惑して、禁断の「善悪知るの木の実」を食べさせた蛇を悪魔(サタン)と同一視する解釈は、新約聖書(たとえば黙示録12章)にはありますが、旧約聖書(ユダヤ教聖典)そのものにはまったくありません。したがって、蛇をサタンと解釈することが始まったのは、西暦前2世紀頃から、流行した黙示文学・終末思想の影響によるものだと考えられます。よく知られているように、黙示文学・終末思想は、宇宙を善と悪(光と闇)の二つの勢力の戦いと見て、神からの超越的力によって悪が滅ぼされる時が来ることを信じる宗教運動ですが、そのようなユダヤ教の宗教運動の中で、蛇とサタンを同一視する解釈も生まれたのだと思います。キリスト教はこの運動の落とし子ですから、この解釈を受け継いでいても不思議はありません。ユダヤ教は、キリスト教と違って、やがて、この黙示文学・終末思想の運動が生んだ数々の書物のほとんどを「外典・偽書」として拒否しました。
(2)なぜ神は悪の存在を許したか
「神は愛であり善であり、かつ全知全能である」とすれば、悪の存在はそのような神の存在を信じる立場に一つの困難を突きつけます。悪の問題は、哲学史上、神の非存在を証明するためにしばしば利用されてきたものです。その代表的な例の一つが、つぎのような、デイヴィッド・ヒュームの言葉です。
いったい、そもそもなぜ、この世界には悪や苦が存在するのだろうか。偶然であるわけはない。原因がなければならないはずだ。では、神が悪や苦の原因なのだろうか。いや、神は完璧なる愛と善意のお方であるはずだ。では、神の意図に反して、悪や苦は存在しているのだろうか。しかし、神は全能ではなかったか。(『自然宗教に関する対話』より、佐倉訳)つまり、
(a)神のつくった世界に悪や苦が存在する。という二つの命題は矛盾しており、しかも(a)は事実であるから、(b)は間違っているという結論が導出されるわけです。一般に、「神がいるなら、なぜ不幸な人間をほおっておくのか」、という議論はもっともよく聞かれる無神論者の理由です。
(b)神は愛であり善であり、かつ全知全能である。
このような論理に対する反論は、大きく分けて、次のような二つの立場があると思います。
(c)悪や苦は、神に反逆した人間(や天使)がもたらしたものである。しかし、神は愛であり全知全能であるから、やがて、すべての悪を滅ぼし、人間を救い、理想の世界(神の国)を実現する。少々乱暴に分けてしまえば、(c)はキリスト教の基本的立場であり、(d)はユダヤ教の立場である、と言えると思います。実際は、キリスト教も、神の国という完全な善の世界が到来するまで、一時的に神が悪や苦の存在を許している理由を正当化するために、部分的には(d)の論理を必要とします。また、ユダヤ教においても歴史的に(c)が流行した時期(前2世紀から後1世紀)があります。(d)悪や苦の存在を許すことは、もっと広い次元から見れば、善の一部である。悪や苦の可能性のまったくない善より、悪や苦の可能性の存在する善の方が、よりすぐれた善である。
(c)はわかりやすいと思いますが、(d)は説明を必要とするかも知れません。もっとも一般的な説明は、自由による護教論です。つまり、もし神が悪の可能性を許さぬ世界を造るとしたら、それは人間に自由のない世界でもある。ロボットの世界にすぎない。たとえ悪の可能性があったとしても、自由のある世界の方が、よりすぐれた世界である。いわゆる、「すべての可能な世界のうちで最善の世界」を神が造ったのだ、というライプニッツに代表される論理です。
これらの護教論は、人間のつくりだす悪については、ある程度の説得力を持ちますが、自然災害については十分に説得力を持ち得ていない、と一般に考えられています。そこで、悪の存在に関する護教論は最終的には、「神のなされることは人間の知恵にははかりしれないものである」というところに逃れてしまうため、論議は行き止まりになってしまうのが現実だと思います。
(3)神の責任
罪の責任を問うためには、法律の存在が先行しなければなりません。つまり、神の存在に先行して、善と悪の基準となる律法がより上位の権威として存在しているのでなければ、神の責任を問うことはできません。ところが、ご存じのように、聖書によれば、律法があって神があるのではなく、神があって律法があるのです。神の意志が善悪の基準なのです。神は律法によって裁かれる者ではなく、神がその意志に従って律法を与えるのです。神は律法の上に立つ権威なのです。したがって、神の責任ということはありえないと思います。聖書の神を認めれば、そういうことにならざるを得ません。
聖書の神は絶対君主なのです。それゆえにこそ、「殺すべからず」という律法を人間にあたえておきながら、おのずからは、殺人を命令することもできるわけです。この神の絶対君主的性格は、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教という、パレスチナで生まれた三大宗教にすべて共通しています。これらの宗教の特徴を生み出した母胎としては、日本の学説の中では、たとえば、和辻哲郎の『風土』に代表されるように、「砂漠の宗教」説が有名ですが、わたしは、そうではなく、すでに他の所でも説明したように(「作者より木村さんへ」参照)、古代イスラエル人とつねに深い関わりのあった、古代メソポタミアや古代エジプトの強大な政治権力との争いの歴史が生み出したものであると考えています。
絶対君主の権威は法律の権威よりも上位にあるために、絶対君主は法律に縛られていません。法律に縛られていなければ、絶対君主を罪の責任に問うわけにはいきません。つまり、わたしたちが、聖書に書いてあるような神を認める限り、神が何をしようが、わたしたちは神を責めることはできません。絶対君主としての神を認めたとき、わたしたちは、同時に、神を責める法的根拠を放棄しているのです。