先日(8月12日1997年)短波放送KTWR 11700KHZ0630−0700JST で<牧師の書斎から>を聞いていたら 講演者の羽鳥 純二先生が自由主義者の教え るキリストとは
1。処女降誕なし
2。奇跡なし
3。十字架のあがないなし
4。肉体を持った復活なし
5。天にのぼられた昇天なし
6。再臨なし
で、それでは残るのは何ですか・
と話ておりました。佐倉さんはこの6項目についてどのようにお考えでしょうか。 質問しますので御返答お願いします。

以下は、ご質問いただいた項目に関するわたしの理解の一部です。

(1)処女降誕について

「処女降誕」の物語が、かなり後代にできた作り話であることは、新約聖書の資料の中でもっとも古いパウロの書簡においてもまったく話題になっていないし、福音書の中においても、イエスとその弟子たちの間の会話の中でも、また、敵対していたユダヤ人宗教指導者たちとの論争のなかにおいても、まったく話題にあがっていないことなどから明白です。つまり、すべての英雄物語がそうであるように、人々の間で彼が英雄に祭り上げられるようになったから、英雄にふさわしい生誕物語が出来上がったのであって、後代のクリスチャンが思っているように、イエスの生誕が特別だった事実が先にあって、そのことゆえにイエスが「神の子」あるいは「救い主」として認められる理由の一つとなった、のではありません。

(2)奇跡について

奇跡物語の目的は、神の特別な力がイエスあるいはその弟子たちに働いていたことを示すためですが、これも、すべての宗教的英雄がそうであるように、それを「信じたい」あるいは「信じさせたい」と欲する信奉者たちのあいだで、奇跡のうわさがまわりまわっていくうちに、「それは実際にあった」、というに話に発展していった、というのが真相だろうと思います。現代でも奇跡の話はよく聞きますが、いつでも、誰かがそう言っていたという話を又聞きにするのが通例で、実際奇跡を体験したという本人の話を直接聞くことはほとんどありませんし、奇跡を自分自身で実際に見ることは決してありません。奇跡はいつもそれを信じたい人々の話の中にしか存在しません。

ただ、病気直しの「奇跡」だけは、実際にあっただろうと思われます。現在でも、患者が医師を信頼することができるかどうかという心理的なものが、肉体の治療の効き目に影響があることがわかっています。それは合理的な説明のできる病理的現象であって奇跡ではありません。もちろん、聖書にでてくる奇跡のすべてを「科学的に」説明を試みることはよくなされています。しかし、もし奇跡がすべて自然現象として説明されてしまえば、それは、もう奇跡とは言えなくなります。

(3)十字架のあがない

十字架のあがないについては、新しく拙論(「十字架のあがないと日本人」)を発表しましたので、そちらをご覧下さい。


(4、5)復活と昇天について

イエスの復活にまつわる聖書の記録は矛盾に満ちていて、新約聖書の中でももっとも信頼することのできない記録です。それらについては、わたしの復活論(「イエスとともに復活した人々」、「イエスの墓を見た女」、「女の報告と弟子たちの反応」、「イエスの顕現」)においてかなり詳しく述べておりますので、そちらをご覧下さい。


(6)再臨について

そもそもメシヤとは、イスラエルにダビデの王国を復帰する役目をもって、現れるべき人物ですが、イエスの弟子たちも、最初はイエスにそのようなメシヤとしての期待をもって従っていたに違いありません。ところがイエスの突然の死をむかえて、この信仰は挫折してしまいます。そこで、教祖を失ったイエスの弟子たちは、イスラエル古代の「生け贄」の思想に着眼して、イエスの死はイエスの宗教運動の失敗ではなく、むしろ、人類の罪をあがなう使命をもってきたメシヤの勝利の死であったという、驚くべきメシヤの使命の再解釈をおこないます。そのことによって、イエスの宗教運動は、イエスの死後、それとはまったく違う新しい宗教へと変質しながらも、生き残ることなります。

ところが、教祖の死を正当化するために考え出されたこのメシヤの使命の再解釈には、一つの大きな欠点がありました。なるほど、身代わりの生け贄という解釈にはそれなりの意味はあっても、本来のメシヤの使命であったダビデ王国の復帰(神の支配の実現)はなにも果たされていないのです。そこで、キリストが再来して最終的使命を果たす、という思想が生まれざるを得なくなったのです。このような、メシヤは二度にわけて来なければならない、などという思想は、本来の聖書の伝統(旧約聖書)にはまったくありません。つまり、再臨思想は、教祖の突然の死という一大事を、メシヤの使命を再解釈することによって乗り越えたために生じた思想的欠陥を補うために現れた、一つの追加思想なのです。

ところで、最初のうちは、再臨のキリストは「すぐ来る」と思われていました。たとえば、パウロは明らかにそう信じていました。ところが、いつまでたっても、キリストは来ないので、後には、たとえばルカのように、再臨の時期を無期延期することになります。このために、新約聖書は、「すぐ来る」という切迫感のある初期の記録と、「いつ来るかわからない」というのんびり型の後期の再解釈された記録とが、混ざりあっているのです。

以上、簡単ですが、ご質問にお応えしました。