はじめまして。

HPに目を通させていただきました。私はプロテスタントのクリスチャンで、聖書至上主義を掲げている宗派の教会員です。職業は3DCGデザイナーで社会人5年目になる28歳です。

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私は昔からこう考えています。<神様はなんと絶妙のバランスで、人間にアレコレと考えさせる世界を創ったのだろう>と。人間が昔から議論してきたテーマ・素材は、神様が人間に<自由に考えさせるために><あえて>与えているものではないかという考え方です。

神様は人間に、例えば恐竜の化石・例えば宇宙を見せて、自分達のルーツ・この世の起源等に関して自由に考えさせ、研究させる<自由>を与えてくれているのです。そこで<神様なんかいない>と科学者が言おうがそれは人間の自由意志・・という考えを神様はしているのだと思います。神様は人間に、ありとあらゆる研究課題・自由意志でYESともNOとも言えるものを地上に創造してくれました。自然・宇宙・動物・聖書等・・・・これらを踏まえて<神様を信じる>というようにストレートに、人間の思考が向かってはいけないのです。神様はそれを望んではいないと思います。あくまで精霊の感化によって、その人の望まれた時期に<信仰>によって、神のもとに帰ることを望まれているのだと思います。もし聖書が完全なもの(神が書かせたもの)だったらどうでしょう。もし神様が存在するという科学的確証が得られたらどうでしょう。その時パニックになる人間はどれだけでるでしょう。

神様はいるのか、いないのか・・・そのどちらも人間には到底分からない絶妙のバランスでこの世は作られているから凄いのだと認識しています。また神の側の人間に立つことを望むにあたり、<信仰>以外にそれを望むことができないように人間、そしてこの世が作られているのも神様の計画であると思います。

所詮、人間は神様に用意されたこの地上で、神様の計画通りに歩んでいる(手のひらで躍らされている)のではないでしょうか。しかし、その<神様なんかいない>という認識に人間がたってしまうような地上の中から<それでも私は神様を信じます。イエスを信じます>という人間が出てくることを切に望んでいらっしゃるし、そういう魂が自分のもとに還ってくるのを待っているのです。

聖書が神の精霊の感化を受けて書かれたものであろうと、なかろうと、それを人間が自由に考えることを、神様は狙っています。そうしてまたこの世は、神様がいるのかいないのか分からないまま続いていくのです。

でも自分の罪を、罪と認識せず生きて破滅に向かうよりも、自分の罪を、罪と認識しイエスの名を通して神様に許しを得る生活というのは<罪の自覚>があるだけまだ、信仰のない人間よりも破滅に向かう道から離れています。人間は過ちを犯したときは、そのことを深く反省するのに、<過去を忘れる存在>としても作られているので、同じ過ちを繰り返します。社会人として働いている私も、クリスチャンでありながら、多くの罪を犯します。しかし、そんな罪深い人間をも許し、抱きしめてくれる存在を認識しながら生きていくことはすばらしいことです。何よりも聖書でイエスの地上時の人性に触れるとき、精霊の感化を受けている人は幸いだと思います。

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サタンが存在することを確信するのは、クリスチャンになってからです。 その時、この世の真実が分かっていただけるように思います。

1.自己欺瞞

この世は、神様がいるのかいないのか分からないまま続いていく・・・。 私も、クリスチャンでありながら、多くの罪を犯します。しかし、そんな罪深い人間をも許し、抱きしめてくれる存在を認識しながら生きていく・・・。

「この世」の人々は神が「分からない」けれど「私」はその存在を「認識」できる? kawamuraさんはわたしたち普通人の持たない何か特別な認識能力をもった超人なのでしょうか。いいえ、kawamuraさんも、他の人々と同じように、神について何も知っているわけではありません。実は、クリスチャンの間では、kawamuraさんのように、単に「信じている」に過ぎないことを平気で「知る」とか「認識する」などという知識を表わす言葉を使う慣習があるのです。

<知ること>と<信じること>は同じことではありませんが、kawamuraさんの語られるように、クリスチャンの世界では、自らの信仰をあたかも知識であるかのごとく語る癖があるわけです。そこに、実は、クリスチャンの信仰のもつ特異な性格が現れていると考えられます。いったいなぜ、クリスチャンは、本当は何も知らず、ただ信じているにすぎないことがらを、まるで知っているかのごとく振る舞わなければならない羽目に陥ってしまうのでしょうか。

ここにわたしがキリスト教信仰を捨てた最大の理由があります。


2.御利益

キリスト教信仰をもつということは、わからないことは「わからない」、知らないことは「知らない」 と 自由に言うことができなくなることです。信者は、見たことのない事柄についてまるで見てきたかのごとく喋るペテン師のように、神やキリストや天使や悪魔や未来や死後の世界など、人間の認識の届かないことがらについて、まるで知っているかのごとく確信しなければならないからです。かれらがそうするにはそれなりの理由、すなわち、そうすることによって得られる何か(御利益)がなければなりません。それがまさにここに述べられていることです。

自分の罪を、罪と認識しイエスの名を通して神様に許しを得る生活というのは<罪の自覚>があるだけまだ、信仰のない人間よりも破滅に向かう道から離れています。・・・私も、クリスチャンでありながら、多くの罪を犯します。しかし、そんな罪深い人間をも許し、抱きしめてくれる存在を認識しながら生きていくことはすばらしいことです。
キリスト教信仰の魅力は、何と言っても、この御利益(悪いことをしたことを罰せずに見逃してやるという約束)を手に入れることにあります。「あんさん、悪いことしたやろ。見てたで。家族にばらしたろうか。警察につきだしたろうか。うん?それとも、わいの言う通りにするか。そうすりゃ、あんさん、あんたのことを見逃したるで。」この誘惑こそがキリスト教の中心的メッセージです。

自らの犯した罪は自らが償うべきだと考えて、批判と罰を真正面から受ける決意をするか。それとも、「見逃してやるで」という甘い誘惑に負けて、心ならずも、他人の言うままになる決意をするか。キリスト教信仰を受け入れるということは、その後者を選択するということに他なりません。だから、かれらは、わからないことは「わからない」、知らないことは「知らない」 と 自由に言うことができなくなるのです。神やキリストについて何も知らないくせに、まるで何かを知っているかのごとく振る舞わなけれならないのは、そういう裏の約束があるためです。


3.聖書信仰

以上のことがわかれば、聖書至上主義というものの正体が明らかになります。

もし聖書が完全なもの(神が書かせたもの)だったらどうでしょう。もし神様が存在するという科学的確証が得られたらどうでしょう。その時パニックになる人間はどれだけでるでしょう。
あきらかに、かれらによって聖書があがめられるているのは、それが正しいからではありません。そうではなく、それを真理であると信仰すれば、御利益(「その時パニックにな」らないこと)が手に入いると思い込んでいるからです。


4.参照