再びお便りさせていただきます
最初に、私の疑問に答えてくださって有り難うございます。 ですが正直に言って貴方の言っている事が良く理解できませんでした。 これは私の文章の理解力の問題のせいかもしれません。 というわけで、もし御暇でしたらもう一度私の質問に答えてはいただけませんか。
貴方は信仰を批判しているのですか。(恐縮ですが、「はい」か「いいえ」をご返答にいれて下さい。)それは何故ですか。「救われたい欲求を根拠にした信仰」 はいけないのでしょうか。 もしそうでしたら何がいけないのでしょうか。それは貴方にとって何故いけないのですか。
又、貴方は信仰を否定しますか。(恐縮ですが、「はい」か「いいえ」をご返答にいれて下さい。) それは何故ですか。貴方には信仰は必要ではないのですか。
大変見苦しい文となってすみません。それと、私の意見は全く書かず、貴方の意見ばかりをお聞かせいただくことは大変失礼な事とは知っております。 ですが、私は今このこと(信仰とは何かという問題)について考えている最中で、まだ自分の結論がでておりませんので、こうして貴方のご返答を参考にさせていただきたいのです。
貴方は信仰を批判しているのですか。(恐縮ですが、「はい」か「いいえ」をご返答にいれて下さい。)はい。
それは何故ですか。「救われたい欲求を根拠にした信仰」 はいけないのでしょうか。 もしそうでしたら何がいけないのでしょうか。それは貴方にとって何故いけないのですか。信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信すること、というのがわたしの信仰の理解であり、キリスト教に関して言えば、神や天使や悪魔の存在、神の性質、神の約束、原罪、イエスの死による贖罪、イエスの復活、キリストの再臨、聖書の不可謬性、死後の世界、最後の審判、などについて確信することです。わたしは、これらのことについては実際にはなにも知らないので、それらをまるで知っているかのように確信し、振る舞うことは、わたしとってはとても苦痛なのです。(この苦痛は十数年続いたのです。)
又、貴方は信仰を否定しますか。(恐縮ですが、「はい」か「いいえ」をご返答にいれて下さい。)はい。
それは何故ですか。貴方には信仰は必要ではないのですか。知らないことは知らないとして素直に認めた(つまり疑わしいままにしておく)とき、わたしは、図らずも、心の解放を見いだしたのです。本当はなにも知らない事柄について、まるでそれを知っているかのごとく確信しようとしたり振る舞う必要がなくなったからです。この解放感に比べると、信仰によって得られるとするあらゆる救いの約束事は、みんな色あせて見えるのです。
いわば、信仰を捨てたとき、わたしは救いを見いだしたのです。