佐倉 哲 こんばんは。

一つ一つの問いかけに対して、きちんと応答していただき、 ありがとうございました。少しずつ考えていきたいと思います。 また、リンクは勝手にしても良いとのことでしたので、 させていただきました。

きょうは、矛盾ということについての、佐倉さんのご意見に、 わたしなりの再反論というようなものがありますので、それを、 投書させていただきます。

00年12月29日付けの「矛盾と相違」についてです。

「これはいかなる盾をも貫くことの出きる優れた矛である」とある人が誇らしく主張し、「これはいかなる矛も貫くことのできない優れた盾である」とまた別の人が誇らしく主張しているとします。すると、この二つの主張は単に相違しているだけではなく、一方の主張が正しいとすると、他の主張は必然的に間違っている、そのような特殊な種類の相違です。そのように、二つの主張がどちらも真理である可能性のない、一方が真理であるなれば、他方が必ず間違っているような二つの主張がある場合、その関係を「矛盾」というわけですね。...中略...わたしが指摘しているものは、単なる相違ではなく、相違の中でも、とくに、二つの資料の主張がどちらも真理である可能性のない、一方が真理であるなれば他方が必ず間違っていることになる矛盾した相違です。 (佐倉さん)
さて、この言葉の故事来歴については、わたしもその様に理解しています。ただし、「これはいかなる盾をも貫くことの出きる優れた矛である」という主張も「これはいかなる矛も貫くことのできない優れた盾である」という主張も、どちらも間違っているという、可能性がもっとも高いのです。聖書の矛盾に関しても、それが資料説という、人間の作文という立場に立つ以上、まず、どちらも真理ではない、(真理をそのうちに秘めた思想ではあっても、絶対的真理ではありえない)という立場で見るから、自然に、矛盾ではない、という言葉になってしまったのです。

そのために、「聖書は神のことばであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書主義者の主張が崩壊することになり、さらには、神は全知全能であり、神のことばには一切の誤謬がないとすれば、「聖書はすべて神のことばである」、という主張も崩壊することになるわけです。

そうでした。佐倉さんの議論は、聖書「絶対」主義者の無謬論に反対する、という趣旨のものでした。したがって、前回のわたしの問いかけは、この佐倉さんの前提を無視した、勝手な議論でした。失礼いたしました。その点はご容赦ください。

ただ、わたしも、聖書は大切で、信仰の根拠としてさまざまな議論の場合の拠り所にしたい、という意味では聖書主義者です。「神は全知全能であり、神のことばには一切の誤謬がない」のでしょうが、聖書はすべて人間の作品で、(神のことばを含んではいても、同時に)時代の制約、人間としての著者の制約、言語や社会の制約を受けていますから、当然そこには誤謬も含まれるし、著者の違いによって論理上の矛盾も含まれるでしょう。ここまで書いてきて、佐倉さんの主張したかった点も、この論理的矛盾の指摘、ということだったのかな、と思い始めました。重ね重ねの、誤解による議論をお許しください。ただ、「聖書は神のことばであり、いかなる誤謬も含まない」という一部の原理主義的な方々の主張を、「聖書主義」という呼び方はしない、と思うのですが、いかがでしょうか?

ただ、「聖書は神のことばであり、いかなる誤謬も含まない」という一部の原理主義的な方々の主張を、「聖書主義」という呼び方はしない、と思うのですが、いかがでしょうか?
そうかもしれません。わたしはこの言葉を<聖書を真理の根拠とする立場>として使っているのですが、Webを探索しましたら、カトリックの「伝統主義」(?)に対して、ルターやカルヴァンなどの「聖書主義」というような仕方で使われているようです。たとえば、こんなのがありました。
マルティン=ルター(1483〜1546)の宗教改革のひとつの柱として聖書主義があることはいうまでもありません。

(「経典箱」)

カルヴァン派:ルター派よりも徹底した聖書主義。予定説=自分は救われるという強い信仰。

(「キリスト教:厳しい自然の中で生れた宗教」)

カルヴァンの神学は「福音主義」(端的に、聖書主義、信仰主義)といわれるものである。「予定説」ばかりが強調されるが、それはルターをはじめ中世末期のキリスト教思想家にある程度共通に見られた傾向であり、カルヴァンの著作を読めばわかるように、彼が「予定説」をことさらに教義の中心においた箇所を見いだすことは難しい。カルヴァン神学(つまりはプロテスタンティズム)の中心内容はいうまでもなく福音主義である。人間の自己の自覚(人間が有限・不完全であることの自覚)も人間の救いも、ただ神という基準によってのみ可能であり、地上の完全でも正しくもない権威、伝統・伝承、制度(具体的には教皇)によるのではない。

(「カルヴァンの神学」)

しかし、「地上の完全でも正しくもない権威、伝統・伝承、制度(具体的には教皇)」ではなく、「神という基準」(すなわち聖書の言葉)のみを権威として認める立場を「聖書主義」と呼ぶのは、わたしのように、「聖書を真理の根拠とする立場」を「聖書主義」と呼ぶのと、それほど大きな差があるようにも思えません。

しかし、わたしには、呼び方はどうでもよいのです。教会を運営する人々が「地上の完全でも正しくもない」人間にすぎないように、聖書を書いた人々も、まったく同様に、「地上の完全でも正しくもない」人間にすぎないない、という、はなはだあたりまえのことを述べているだけです。