それに関連し、捺間龍作さんから手厳しい批判をいただきました。私はクリスチャンでもなく、しかも科学で飯を食っていたりするので、捺間さんの批判は心外だったのですが、考えてみると私が「科学教」の信者ではないということを確認するという意味で捺間さんの批判は意味があるのだろうと思いました。どうも貴HPを読んでいると、「佐倉教」の信者が増えているような気がして心配です。科学が「科学教」の信者にはできないように、佐倉さんの説の検証は「佐倉教」信者にはできませんからね。
ここで、「〜教」というのは、あることを盲信することという意味で使っています。もちろん、佐倉さんは「科学教」や「佐倉教」の信者ではないと思っています。
さて、聖書の間違いシリーズの中で、科学的知識との齟齬を扱ったものは、私の見るかぎりでは「太陽創造時期の不合理性 」と「地上植物と水中動物の出現時期の間違い 」だけです。その気になって探せば他にいくらでもあるだろうに、です。このアプローチに困難が多いのは自明のことのように思えます。ですから、佐倉さんはこの二つの例を満を持して出してきたのでしょう。しかし、私はここで述べられた程度では未だ科学的知識との齟齬とは言えないと思いますので、「太陽創造時期の不合理性 」を例にとって、このアプローチの問題点を考察し、次いで、佐倉さんが自明のことをなぜ述べないのかを考察し、聖書の間違いを指摘するうえで科学的知識との齟齬を用いることの可否を考察します。
1.「太陽創造時期の不合理性 」の問題点
植物について(より正確にいえば葉緑体について)その進化についてはかなりのことがわかって(確度の高い推定がされて)いますが、発生についてわかっていることはあまり多くありません。特に、葉緑体としての機能を発現するための精緻な機構(それがどれほど驚嘆すべきで、微妙なバランスの上に立っているのかを一般の人に伝えるのは大変難しい)のプロトタイプがどのようにして誕生したのかについては全くわかっていないといってもいいでしょう。それは、偶然と呼ぶにはあまりに確率の低い出来事のように思われます(ので、神の力を喧伝したい人には格好の材料になる)が、もちろん偶然なのでしょう。ただ、「その誕生に光が必要だったわけではない」というのは確実です。しかし、「光が無ければ、そのような無用な器官(生物)は残らなかっただろう」というのも確実です。ですから、その時には光はあったのでしょう。それは間違いない。ここまでは知識です。
では、その時の光は太陽の光だったか?そうだという論理的必然性はありません。そうだと「漠然と」信じられています。しかし、それはある意味で信仰であって知識ではありません。
その光が太陽由来ではない可能性はいくつか考えられますが、例えば異星の太陽の光という可能性があります。地球上の生命の先祖が宇宙から隕石にのって飛来したものであるという説は古く、まだ否定されていません。その場合、異星での葉緑体の発生は、時間的に言って太陽系の形成の前となります。この説には、重元素の宇宙での進化の問題がつきまとうので可能性はかなり低いものです。しかし、可能性が低くても、起こった事象は一つしかない(葉緑体、つまり植物、の発生も、ミトコンドリア、つまり動物、の発生も、生命の歴史上で一回しか起こってません)ので、ここでは常識とか確率とかは無意味です。
もちろん、聖書にはそんなことは書いていません。しかし、植物が発生したのが地球上だとも書いてません。
「では、おまえはそれを信じているのか」という反論が聞こえてきます。「信じていないものを是とするのか」と。あるいは、「科学の名を借りた非科学で聖書を擁護するのは許せない」と。私の立場は「正しいとも正しくないとも言える」あるいは「この問題で真に信じられるものはない」であって、聖書のシナリオが不自然だとも思いませんし、聖書を擁護しているつもりもありません(誰かが聖書の擁護に使うかどうかまでは私は責任をもてない)。どんなに不自然なことであってもそれは起こりえたことです(起こったとは言わない)。
そもそも、科学的常識に従えば、生命の様な「不自然な」物など発生するはずはないのですが、ここではそれは置いておきましょう。
ということで、佐倉さんの批判
ここには、われわれ現代人にとっては受け入れ難い、少なくとも二つの大きな不合理性があります。一つは、いかなる地上の植物も太陽の光なしに生成することは不可能なのに、太陽が創造される以前に地球に植物が生殖しているという主張です。もう一つは、太陽の周りを回る惑星である地球が、太陽が存在する前に存在することが出来たというコペルニ クス以前的考え方です。の前半についての結論:「持っている知識を正しいと判断している間は、その知識と明らかに一致しない記述がある場合、たとえそれが聖書の記述であっても、それは間違いであると判断を下さねばなりません。」という佐倉さんの判断基準では、創世記のこの部分は「間違いである」と判断することは(少なくとも私には)できません。
2. 佐倉さんが述べない自明のこと
そもそも、創世記のような物語を「科学」をもって「正しいか正しくないか」を決めようとするところに問題があるのです。だから、「光さえあれば太陽の存在と関係なく植物は発生しうるのだから、聖書と科学的知識との間には齟齬はない」という反論を許すことになります。では、佐倉さんの批判の後半部分についてはどうでしょうか。
佐倉さんの批判の根本的な問題は、神という「万能者」が存在すれば、論理的に解決してしまうということです。 佐倉さんの批判が成り立つためには「神の不在」が「科学的知識」あるいは「常識」でなければなりません。佐倉さんはこれを自明の前提として(わざと?)述べていません。ところが、「神の不在」は知識ではありません。「科学的常識」ですらありません。「科学」と「神」は無関係なのです。
さらに問題なのは、「神の存在」が「常識」である類いの人にとって、佐倉さんの批判がなんの意味も持たないことです。
定義がはっきりしないものに対して、科学は何も言いません。神が観測できない以上、神を科学的に否定することはできません。肯定することも同様にできません。だから「神がいるかどうかわからない」というのが「科学的な立場」というものだと私は思っています。佐倉さんにとっても「神の不在」が自明でないことは貴HPで繰り返し述べられていますね。そして、もし万能の神がいるのであれば、植物を太陽の前に創造することはもとより、太陽の前に地球を造ることも不可能ではありません。ですから、そのような状況を「科学的に否定する」ことはできません。
論理学の基本ですが、前提が偽であれば、そこからどのような結論を導こうとも、その推論自体は真であり得ます。「太陽創造時期の不合理性 」の言説が真であるためには、「神の不在」が真である必要があります。
「太陽創造時期の不合理性 」を突き詰めれば、「聖書は神の存在を前提としているところに間違いがある」と言わなければなりません。植物の発生などは枝葉末節の問題です。聖書の真否は神の存非に従属しています。神の存非に関わるところで聖書の真否を議論することはできません。
3. どのように聖書の間違いを指摘すべきか
信仰の真偽は科学の対象ではありません(現段階では)。ですから、 科学を用いて聖書に反論するのは空しいものです。同様に、科学を用いて聖書を擁護するのも空しいことです。クリスチャンの「科学的」聖書擁護は見苦しいものです(聖書に7日で世界を造ったと書いてあるんだからそのまま信じていればいいじゃないか!)。同様に、神について不知の知を自覚しているものが行なう科学的聖書批判も的外れだと言わざるを得ません。
しかし、論理的矛盾ではそうは行きません。聖書はヨハネが言うように「信じさせるために」書かれたものだからです。私は佐倉さんが、二つの方法論のうち論理学を用いた手法にのみ頼るべきだと思います。
Nobuhiro Kihara(三回目のお便りになります)
そうそう、忘れていました。「好きなもの」リストの中の安部公房が阿部になってます。
P.S. 私も中島みゆきが好きです。娘に仕込んでいますので、娘は10才ですっかり中島ファンになってしまいました。
【異星の太陽の光という可能性?】
では、その時の光は太陽の光だったか?そうだという論理的必然性はありません。そうだと「漠然と」信じられています。しかし、それはある意味で信仰であって知識ではありません。 その光が太陽由来ではない可能性はいくつか考えられますが、例えば異星の太陽の光という可能性があります。・・・もちろん、聖書にはそんなことは書いていません。しかし、植物が発生したのが地球上だとも書いてません。「異星の太陽の光という可能性」はありません。なぜなら、創世記の記述によれば、神が植物を地上に繁殖させたという第三日、
神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。この第三日より後に、すなわち第四日目に、星も、太陽や月と一緒に、創造されたことになっているからです。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の 大空に光るものがあって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光るもの[太陽と月]と星を造り、大き な方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光りと闇を分けさせられた。神はこれを見て良しとされた。夕べがあり、朝があった。第 四の日である。したがって、太陽が存在する前に地上に植物が繁殖していたと記述している聖書を正当化するために、「異星の太陽の光という可能性」を持ち込むことはできません。聖書そのものが、星の創造時期を植物の創造時期より後にしていて、その可能性を否定しているからです。(以上、創世記1章11〜19節)
【科学の常識】
佐倉さんの批判の根本的な問題は、神という「万能者」が存在すれば、論理的に解決してしまうということです。 佐倉さんの批判が成り立つためには「神の不在」が「科学的知識」あるいは「常識」でなければなりません。佐倉さんはこれを自明の前提として(わざと?)述べていません。ところが、「神の不在」は知識ではありません。「科学的常識」ですらありません。「科学」と「神」は無関係なのです。 ・・・もし万能の神がいるのであれば、植物を太陽の前に創造することはもとより、太陽の前に地球を造ることも不可能ではありません。ですから、そのような状況を「科学的に否定する」ことはできません。おっしゃる通り、科学は神を語りません。しかし、当然のことながら、科学は宇宙や地球や歴史について沢山のことを語ります。聖書は、科学と違って、神について積極的に語ります。もし聖書が神についてのみ語っていたならば、聖書の主張と科学の主張との間には何の問題もなかったことでしょう。ところが、聖書は、神についてだけでなく、宇宙や地球や歴史についても語っています。そのために、科学の語る領域と聖書の語る領域が重なり合うとき、両者の主張が矛盾する可能性がでてくるわけです。
その矛盾があるとき、仮にわたしが科学の主張を「正しい」と思っているなら、わたしは、意識してようとしていまいと、その科学の主張を受け入れることによって、聖書の主張を「間違っている」と否定していることになります。そうではなく、もし、わたしが科学の主張を「正しい」と思っていながら、同時に、「聖書には間違いがない」と言い張るなら、わたしは自己欺瞞に陥っていることになります。
さて、植物と太陽について「科学の常識」は何を語っているのでしょうか。『科学1001の常識』という本を開いてみましょう。
五億九000万年前頃に海藻とか、ハマグリとか、サンゴ虫のような、植物、動物の複雑な集合体が浅い海で発達してきた。その後も一億五000万年以上にわたって地球上のすべての生命は海の中にあり、地上は不毛の地であった。(199)神を語らない「科学の常識」は、このように語ることによって、太陽も月も星もまだない時に「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた」(創1:12)と語っている聖書の主張と矛盾することになるわけです。「科学の常識」がこのように聖書の主張を否定することになったのは、科学が神を語ったからではなく、聖書が科学の研究対象の領域について語っているからです。生物は約四億三000万年に陸上に移動した。まず、植物が上陸し、それから、現在のサソリのような動物が上陸していった。(200)
太陽は四十六億年前に水素の火がついたのだが、その予測される寿命のおよそ半分程が過ぎたところである。(876)
いかなる生態系でも、生物は食物連鎖で関係づけられている。つまり、一方が食べられ、他方が食べるというような過程が各段階で起こっているのである。食物連鎖の中の最も下のレベルにあるのが、太陽光線を用いて直接自分の組織を作ることのできる植物である。つまり、植物を栄養連鎖の最初のレベルということができる。(159)
植物は太陽光のエネルギーを使って、糖と炭水化物を合成する。次にそれらは他の生物に食べられ、蓄えられたエネルギーは発酵と呼吸によって引きだされる。生物の中にあるすべてのエネルギーは、元々は光合成を通して太陽から来たエネルギーである。(314)
(ジェームス・トレフィル著、美宅成樹訳、講談社ブルーバックス)
【「神の存在」が「常識」である類いの人】
さらに問題なのは、「神の存在」が「常識」である類いの人にとって、佐倉さんの批判がなんの意味も持たないことです。こんなのはまったく問題ではありません。こんなことが問題になるとしたら、わたしがそのような人々を説得しようとするときだけでしょう。しかし、わたしにはそんな興味はまったくありません。わたしは「なぜわたしは聖書を間違っていると考えるか」を述べているだけです。(「作者より土屋健二さんへ 00年6月26日」)