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00年9月7日
佐倉 様
変わらぬ精力的な活動に敬意を表します。
さて、標記の「天地創造の矛盾2:太陽創造時期の不合理性」については、既に数多くの批判があるようですが、それとは違った観点から佐倉さんの言説への批判を試みてみたいと思います。
創世記 1:11-19について、佐倉さんは二つの観点から批判を行ないました。
1.いかなる地上の植物も太陽の光なしに生成することは不可能なのに、太陽が創造される以前に地球に植物が生殖している、のはおかしい。
2.太陽の周りを回る惑星である地球が、太陽が存在する前に存在することが出来た、という主張はおかしい。
まず指摘しなければならないのは、いずれの批判も「聖書の矛盾」ではなく、「聖書と科学的知見との齟齬」であるということです。佐倉さんの聖書の間違いシリーズの最も強力な武器は、並行記事の間の論理的矛盾を指摘する手法です。聖書が、「言語」という論理学を前提とした記述方式をとっている以上、この方法はある記述が正しくないことを明確に指摘することができます(註1)。しかし、聖書の記述に科学的知見と齟齬があることが事実だとしても、それは「矛盾」あるいは「間違い」とは言えますまい。科学的知見は「間違っている可能性がある」ことを前提にしているからです。
佐倉さんは、例えば聖書の奇跡物語・復活物語を「間違い」あるいは「矛盾」だと指摘することを注意深く避けているように思います。それがどれほど荒唐無形で科学的知見に反したことだとしても、論理的にうそだと断定することができないからだろうと思います。しかし、創世記 1:11-19についての批判はこの類いではないでしょうか。この明らかに科学的知見に反したこの物語も、論理的にはうそだと断定することができないように思います。
第一の批判については、植物がどのように発生したのか未だわかっていないので、太陽の光なしに生成することが不可能であるかどうかはわかりません。植物と言われる生物は葉緑体を持っていることが共通点ですが、葉緑体の働きからいって「光が無ければ発生しない器官である」ということまでは(論理的に?)言えますが、光源が太陽であるという保証はありません。言わずもがなですが、光は既に第一日目に存在しています。ですから、「論理的には」第一の批判は当を得ていません。もちろん「科学的には」正しい批判です。しかし、何度も言うように、本サイトの目的は科学的批判ではないと認識しております。
第二の批判についても同様です。創世記は科学的におかしな記述だとは思いますが、それは「間違いである」ことを意味しません。
聖書の記述を信ずるならば、神は万能です。そのような存在を論理的に(註2)仮定してしまえば、太陽に依存せず植物や地球を創製することにも何ら論理的矛盾はなくなることと思います。
註1: 神が論理学に従うかどうか私には不明確だったので、それについての不安を表明したことがありましたが、佐倉さんは心配されていないようでした。それはそれでOKです。
註2: 「万能」という特性を持つ存在は論理的にありうるかどうかは別の議論です。
00年9月29日
科学の知識はつねに間違っている可能性があるのですから、聖書の記述が「どれほど荒唐無形で科学的知見に反したことだとしても」、科学の知識との食い違いを理由に「聖書は間違っている」と断定はできない、と普通はKiharaさんのように考えるでしょう。
それにもかかわらず、わたしが聖書を間違っていると判断する根拠は二つあって、聖書の内部矛盾だけでなく、まさに、聖書がわたしたちの知識(通常それは科学的知識)と食い違う場合も、聖書の間違いの重要な根拠としています。わたしたちの(科学的)知識は間違っている可能性があるのに、どうしてそんなことができるのでしょうか。この問題に関しては、すでに「はじめに」で説明していますので、そちらを参照してください。
おたより、ありがとうございました。