佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

水野さんより

00年6月22日

『聖書の間違い』シリーズの矛盾

水野です。『人間が神に関わることの不合理』への回答、ありがとうございました。

創世記の神話的な部分は、世界中の他の神話と同じように、いかようにでも解釈が成り立つ曖昧な物語りの寄せ集めです・・・。・・・そんな昔話が寄せ集められてできたのが聖書である、という解釈が好きです。

創世記は「神話と同じ」、「(創作された)昔話の寄せ集め」、と断定しておられる、ということは、佐倉さんは、聖書は神が書いたものではなく人間の創作だ、と結論されているようです。その根拠はおそらく、本サイトで指摘しておられる数々の「聖書の間違い」にあるのだろう、と思います。(ほかに根拠があるのでしたら教えてください)

一方、佐倉さんはこうもおっしゃっておられます。

「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。(「はじめに」)
と明確に規定している通り、わたしが、「聖書は神の聖霊によって書かれたものか」を吟味の対象とせず、むしろ、「間違い探し」というはなはだ低レベルな作業に終始しているのもそのためです。このような作業から導出できる結論も、したがって、はななだ射程距離の短いものです。せいぜい、「聖書に書いてあるから」という理由が真理の根拠にはならない、ということぐらいのものでしょう。たとえば、神の真意は何かという問いに対する答えを「聖書に書いてあるから」という理由で根拠付けはできない、というようなことが言えるだけです。 (00年2月14日「間違いはあるが聖霊により書かれたもの」返信)
つまり『聖書の間違い』シリーズは、「聖書は神の聖霊によって書かれたものか」を吟味するものではないし、それだけの力も持っていない、ということだと理解しています。

これは、矛盾ではないでしょうか。

「聖書が神の書物であることを否定する力はない」と言われたはずの『聖書の間違い』の内容によって、「聖書は神の書物ではない」と結論していることになるからです。

また、もし実際そう結論しておられるのでしたら、それは更に大きな矛盾になります。「間違いがあるから聖書は神の書物ではない」という結論は、聖霊によって書かれたものはすべて正しい、という前提に立つ結論であり、佐倉さんが批判の対象にしている、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の単なる裏返しという意味で同類だからです。佐倉さんは自分が批判の対象にしている主張と同じ立場をとっていることになってしまいます。それは、「聖霊によって書かれたものはすべて正しい」という、聖書的ではない人間的思い込みによって聖書の真偽を判断する立場です。

「はじめに」の目的を修正するか、聖書を神話扱いするのをやめるか、どちらかが必要だ、と思います。

前々から『キリスト教・聖書に関する来訪者の声』における佐倉さんの発言にそういう疑問を感じる節がありましたので、今回お尋ねしてみました。わたしの誤解でしたら、お許しください。では、失礼します。





作者より水野さんへ

00年7月2日

神話

「はじめに」の目的を修正するか、聖書を神話扱いするのをやめるか、どちらかが必要だ、と思います。・・・わたしの誤解でしたら、お許しください。

聖書は詩集を含み、歴史書を含み、神話を含んでいます。水野さんの誤解は単純なもので、水野さんが「神話」という言葉を、「事実ではない、人間の作り話で、背後に神の働きはないもの」、といったふうにきわめて狭義に解釈しておられ、わたしはそうではないからです。わたしは、一般に聖書学者や文化人類学者が使っている意味でこの言葉を使用しています。

とくに、前回わたしが「聖書の神話的部分」と言っているのは、創世記のアダム創造の物語(2章4節の後半)から11章までの部分を指しますが、それは聖書学者の間の慣習です。

11章までは、言ってみればまだ本来の歴史が始まっていないのです。そういう意味で、[聖書学者はこの部分を]神話だというわけです・・・。

(関根正雄、『聖書の信仰と思想』、11ページ)

それで、たとえば、聖書学者は「アダム神話の象徴論的解釈」などといった表現をするのです。聖書に対する特別な偏見をもっているならともかく、そうでなければ、古代ギリシャや古代エジプトやメソポタミアの古典にあらわれる神々の物語を神話と呼ぶなら、古代イスラエルの古典に登場する神々の物語も神話と呼ぶのは当然でしょう。バアルの物語は神話だが、ヤーヴェの物語は神話ではない、などといえる客観的な根拠をわたしたちはもたないからです。

古代人の神々の物語を「神話」と呼ぶかどうかという問題と、その神話の背後に神の働きはあるかどうかという問題、この二つはまったく別の次元の問題です。前者は単に文学形式の分類の問題であり、後者は宗教的、形而上学的問題です。


おたより、ありがとうございました。


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