このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年2月23日
人間は死んだらどうなるのでしょうか。その問いに聖書は以下のように説明しています。
「どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまでわたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてくださいわたしを思い起こす時を。」―ヨブ 14:13,新共同訳ですから、聖書における「人間の死後」とは、人は死んだら墓に葬られて「先祖の列にくわえられる」という単純で厳粛な事実だけではありません。
「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいるものがみな、[子イエス・キリスト]の声を聞いて出てくる時が来ようとしているのです。良い行った者は命の復活へ、いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出てくるのです。」―ヨハネ 5:28,29。この聖句にもあるように、聖書には復活の希望が述べられています。
「[神は]ご自分が任命したひとりの人[イエス・キリスト]によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め、彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになった」―使徒 17:31しかもこの希望は、イエス・キリストの贖いの犠牲によって、全人類に与えられています。
「天的な体と地的な体があります。しかし、天的な体の栄光は一つの種類であり、地的な体の栄光は別の種類です。死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ、朽ちない様でよみがえらされます。物質の体でまかれ、霊的な体でよみがえらされます。」―コリント第一 15:40,42,44この聖句にあるように、天に復活する者と地上に復活する者がいます。
00年2月27日
人間は死んだらどうなるのでしょうか。その問いに聖書は以下のように説明しています。「どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまでわたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてくださいわたしを思い起こす時を。」―ヨブ 14:13,新共同訳
ですから、聖書における「人間の死後」とは、人は死んだら墓に葬られて「先祖の列にくわえられる」という単純で厳粛な事実だけではありません。
もう少し、詳しく、ヨブ記を調べてみましょう。K.M.さんが引用しておられる14章の13節のその直前で、ヨブは何と言っているのでしょうか。
木には希望がある、というように 木は切られても、また新芽を吹き 若枝のたえることはない。・・・だが、 人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。海の水が涸れ、川の流れが尽きて干上がることもあろう。だが、倒れ伏した人間は再び立ち上がることなく、天の続くかぎりは、その眠りから覚めることがない。「切られても、また新芽を吹き若枝のたえることはない」木と違って「倒れ伏した人間は再び立ち上がることなく・・・その眠りから覚めることがない」、それがヨブの考える人間の死です。ヨブは生きて苦痛の人生を歩むよりは死んだほうがましだ、と神に訴えているわけです。だから、K.M.さんが引用しておられる14章の13節のその直後で(ヨブ記、14:10b〜12)
人は死んでしまえば、もう生きていなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。と言います。「人は死んでしまえば、もう生きていなくてもよい」というのが聖書における死後の人間の状態です。人間は死後どこかで生きているというキリスト教の考え方はまったく非聖書的考え方です。同様の句はヨブ記には他にも出てきます。(ヨブ記、14:10b〜12)
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐ息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに。・・・そこでは神に逆らう者も暴れることをやめ、疲れた者も憩いを得、捕らわれ人も、共にやすらぎ、追い使う者の声はもう聞こえない。・・・なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆くものを生かしておかれるのか。かれらは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって、死を探し求めているのに。墓を見いだすことができれば、喜び踊り、歓喜するだろう。死後の世界である「陰府」とは、このように、まさに死の世界であり、別のかたちの生の世界でもなく、そこから帰ってくることのできる世界でもないことは明らかです。 死とはそういうものだからこそ、ヨブは、死を苦しむ者(ヨブ)にとっての唯一の希望(もう生きていなくてもよい、憩いの場)だ、と逆説的に神に文句を言うことができるわけです。それなのに、ここで、復活の希望などという、安易なキリスト教的概念を持ち込んだのでは、ヨブ記の優れた価値がまったく水泡に帰してしまいます。ドグマは聖書をつまらなくしてしまいます。(ヨブ記、3:11〜22)
人も陰府に下れば、もう、上ってくることはない。
(ヨブ記、7:9b)
・・・わずかな年月がたてば、わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり。・・・わたしは陰府に自分の家を求め、その暗黒に寝床を整えた。墓穴に向かって「あなたはわたしの父」と言い、蛆虫に向かって「わたしの母、姉妹」と言う。どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている。
(ヨブ記、16:22〜17:16)
「[神は]ご自分が任命したひとりの人[イエス・キリスト]によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め、彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになった」―使徒 17:31だから、キリスト教(新約聖書)は本来の聖書(旧約聖書)から逸脱した宗教であると断言できるのです。「人も陰府に下れば、もう、上ってくることはない」(ヨブ記7:9)「その眠りから覚めることがない」(ヨブ記14:12)「帰らぬ旅路」(ヨブ記16:22)「塵に帰る」(創世記3:19)というのが本来の聖書(旧約聖書)の死後の人間観です。キリスト教(新約聖書)は、イエスをその墓から復活させることによって、聖書の伝統から逸脱したのです。
「天的な体と地的な体があります。しかし、天的な体の栄光は一つの種類であり、地的な体の栄光は別の種類です。死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ、朽ちない様でよみがえらされます。物質の体でまかれ、霊的な体でよみがえらされます。」―コリント第一 15:40,42,44この句を「天に復活する者と地上に復活する者がいます」と解釈するのはエホバの証人(あの「144000人」のドグマ!)だけではないでしょうか。パウロは「天に復活する者」と「地上に復活する者」などについては語っていません。地上に蒔かれ朽ちていく「物質の体」と朽ちない「霊の体」について語っており、復活するのは後者、つまり「霊の体」としてである、と言っているのです。この聖句にあるように、天に復活する者と地上に復活する者がいます。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、・・・・血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるわけです。・・・血肉の体は神の国を相続することはできません。朽ちるものは朽ちないものを相続できません。・・・わたしたちは皆が眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(コリント第一、15:42〜52、新改訳)キリスト教は本来の聖書から逸脱した宗教ですが、この点においては、エホバの証人は、その逸脱したキリスト教からさらに逸脱した宗教といえるかもしれません。
おたより、ありがとうございました。