新世界訳によれば、第二章の創造の話はこうです。

これは、天と地が創造されたとき、エホバ神が地と天を作られた日におけるその歴史である。さて、野の茂みはまだ地に見られず、野の草木はまだ生え出ていなかった。エホバ神は地に雨を降らせておらず、地面を耕 す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上って地の全面を潤していた。それからエホバ神は地面の塵で人を形造り、その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。さらに、エホバ神はエデンに、その東の方に園を設け、ご自分が形造った人をそこに置かれた。そうしてエホバ神は、見て好ましく食物として良いあらゆる木を地面から生えさせ、また園の真ん中に命の木を、そして善悪の知識の木を生えさせた。(創 2:4−9)

最初の方で「野の茂みはまだ地に見られず、野の草木はまだ生え出ていなかった」とありますが、これは第一章の創造の話とは矛盾しません。第一章の創造の話と比較してみましょう。


次いで神は言われた、「地は草を、種を結ぶ草木を、種が中にある果実をその種類にしたがって産する果実の木を、地の上 に生え出させるように。」するとそのようになった。そして地は草を、その種類にしたがって種を結ぶ草木と果実を産する木、その種類にしたがって種が中にあるものを出すようになった。それから神はそれを良いとご覧になった。(創 1:11、12)

第一章の「種を結ぶ草木」、「果実の木」と 第二章の「野の茂み」、「野の草木」は同じではないでしょう。おそらく、第一章の「草木」や「果実の木」は人の食べられないものだったのでしょう。また、雨が降らなくとも自生できる乾燥に強い植物だったに違いありません。それに対して、第二章の「野の草木」は「見て好ましく食物として良い」ものでした。また、動物についても矛盾しません。


それからエホバ神は人を取ってエデンの園に住ませ、それを耕させ、またその世話をされた。…次いでエホバ神は言われた。「人が独りのままでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼を補うものとなる助け手を造ろう。」さて、エホバ神は野のあらゆる野獣と天のあらゆる飛ぶ生き物を地面から形造っておられたが、人がそれぞれを何と呼ぶかを見るため、それらを彼のところに連れて来られるようになった。そして、人がそれを、すなわち生きた魂をどのように呼んでも、それがすべてその名となった。(創 2:15、18、19)

これは、同じ六日目に行われていた「家畜と動く生き物と地の野獣」を造る業がこのときも継続していたことを示すものです。「家畜と動く生き物と地の野獣」を造る業と、アダムとエバを造る業は並行して行われたのであり、これは矛盾しません。



(1)植物の創造

第一章の「種を結ぶ草木」、「果実の木」と 第二章の「野の茂み」、「野の草木」は同じではないでしょう。おそらく、第一章の「草木」や「果実の木」は人の食べられないものだったのでしょう。また、雨が降らなくとも自生できる乾燥に強い植物だったに違いありません。

しかし、第一章の第三の日目の創造の記述の全文は次のようになっています。

神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
ここから、「第一章の「草木」や「果実の木」は人の食べられないものだった」という解釈はとてもできません。第二章とのつじつまを合わせるために、書かれてもいないことを勝手に付け加えておられるにすぎません。また、「雨が降らなくとも自生できる乾燥に強い植物だったに違いありません」という解釈もここからはできません。これも、第二章とのつじつまを合わせるために、書かれてもいないことを勝手に付け加えておられるにすぎません。

また、第二章の植物創造に関する記述の全文は次のようになっています。

ヤーウェ神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。 ヤーウェ神が 地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出 て、土の面をすべて潤した。 ヤーウェ神は土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 ヤーウェ神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれ た。 ヤーウェ神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ、 また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。
ここでは、明らかに、人(アダム)が造られる前には、「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」と記されています。これは、人が作られる前に「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた」と記す第一章の記述と矛盾します。ここには、「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらす木」だけが、そのときまだ生えていなかった、などとは書いてありません。これも、ただ、第一章とのつじつまを合わすために、そこに書かれていないことを勝手に付け加えておられるにすぎません。


このような聖書解釈の工夫は「調和化」(ハーモニゼーション)と言われています。信仰者にとっては、聖書に書かれていることを知ることよりも、すでに信じ込んでいる(聖書には間違いがないという)ドグマを正当化することの方がより大切なので、聖書のつじつまを合わせるためには、どんな不自然な拡大解釈も平気でやってしまうようになってしまうのです。


(2)『新世界訳』の工夫

新世界訳によれば・・・
それからエホバ神は人を取ってエデンの園に住ませ、それを耕させ、またその世話をされた。…次いでエホバ神は言われた。「人が独りのままでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼を補うものとなる助け手を造ろう。」さて、エホバ神は野のあらゆる野獣と天のあらゆる飛ぶ生き物を地面から形造っておられたが、人がそれぞれを何と呼ぶかを見るため、それらを彼のところに連れて来られるようになった。そして、人がそれを、すなわち生きた魂をどのように呼んでも、それがすべてその名となった。(創 2:15、18、19)

これは、同じ六日目に行われていた「家畜と動く生き物と地の野獣」を造る業がこのときも継続していたことを示すものです。「家畜と動く生き物と地の野獣」を造る業と、アダムとエバを造る業は並行して行われたのであり、これは矛盾しません。

これも、その前後から見ると、不自然な解釈です。
ヤーウェ神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。 ヤーウェ神が 地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出 て、土の面をすべて潤した。 ヤーウェ神は土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 [こうして、まだ、植物がないとき、最初に、人(アダム)が造られます。]

ヤーウェ神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれ た。 ヤーウェ神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ、 また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。・・・ヤーウェ神は人を連れて来て、エ デンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 [こうして、こんどは、植物が造られ、人に耕すようにされます。]

ヤーウェ神は言われた。「人が独りでいる のは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」ヤーウェ神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形造り、人のところへもって来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。 [こうして、こんどは、動物が造られ、人がどんな名前を付けるか見ます。]

人が呼ぶと、それはすべて生き物 の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけ ることができなかった。ヤーウェ神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、肋骨の一部を 抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取った肋骨で女を造り上げられた。 [ところが、動物のなかには人(アダム)にふさわしい助け手が見つからなかったので、エバ(女)が造られます。]

この物語(第二章)の中には、動物(や植物)が、人(アダム)より先に造られたという記述はまったくありません。動物(や植物)創造を、人が作られる前に置くのは、第一章とのつじつまを合わせるために、そこにない事柄を第二章に付け加えることに他なりません。

しかも、つじつまを合わせるのに都合の良いように、『新世界訳』(エホバの証人の聖書)は翻訳に工夫を施しているのです。『新世界訳』の翻訳者たちが、聖書の矛盾を隠ぺいするために翻訳に工夫を施している例は、すでに「聖書は書き換えられたか」でもあげましたが、他にもあります。もう一つ例を挙げておきましょう。

モーセの時に、神はいままでは自分の名前、「ヤーウェ」を人々に知らせなかったと言います。(以下、「主」は「ヤーウェ」に戻しています。)

神はモーセに仰せになった。「わたしはヤーウェである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、ヤーウェというわたしの名を知らせなかった。・・・それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしはヤーウェである・・・」(出エジプト記6章2〜6節、新共同訳)

神はモーセに告げて仰せられた。「わたしはヤーウェである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、ヤーウェという名では、わたしを彼らに知らせなかった。・・・それゆえ、イスラエル人々に言え。わたしはヤーウェである・・・」(出エジプト記6章2〜6節、新改訳)

ところが、アブラハムに対して、神は自分の名前を次のように明らかにしています。
これらのことの後で、ヤーウェの言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。・・・ヤーウェは言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導きだしたヤーウェである。」(創世記15章1〜7節)
それどころか、創世記によれば、アダムの孫エノシュが生まれたころすでに、人々は神を「ヤーウェ」と呼び始めたと記述しています。
(アダムのとエバの子)セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。ヤーウェの御名を呼び始めたのは、この時代のことである。(創世記4章26節)
この矛盾を調和化するために、『新世界訳』(エホバの証人の聖書)は出エジプト記の「ヤーウェというわたしの名を知らせなかった」という部分をどのように翻訳しているでしょうか。
わたしの名エホバ(ヤーウェ)に関しては自分を彼らに知らせなかった。

(出エジプト記6章3節、新世界訳)

名前は知らせていたが、名前に関する情報は与えていなかった、というわけです。巧妙な翻訳(書き換え)です。

エホバの証人のある出版物では、次のような言葉を引用して、聖書の矛盾はどのように対処されるべきかが述べられています。

そのような理解しにくい点(矛盾)を取り扱う際の正しい精神とは、できる限りそれを取り除くことです、そしてすべての雲を取り払うことができない時でも真理(聖書の言葉)を固く守り、真理(聖書の言葉)に従うことである。・・・ある真理(聖書の言葉)がもう一つの真理(聖書の言葉)と対立するように思える時は、それらを調和させるように努め、こうしてそれがすべての人に受け入れられるものであることを示すようにしよう。

(『ものみの塔』1992年7月15日、7ページ)

もし、聖書には間違いがあり、矛盾があるとする仮定する(可能性としてはあるわけですから)と、この方法では、その事実を知ることが不可能となります。はじめから結論が決まっている研究は真実を知るための努力とは言えないでしょう。『新世界訳』(エホバの証人の聖書)は、それを読む人が「聖書は神の言葉であって、誤謬はない」という聖書信仰を持つように特別に工夫された聖書翻訳です。


(3)文献学的裏付け

最初の拙論でものべたことですが、

現代聖書学の成果によれば、いくつかの重要なことがわかっています。たとえば、この二つの創造物語の間には、内容の不一致だけでなく、語彙使用の相違、文体の相違なども同時にあらわれていて、もともと別々の著者によって書かれたものであると考えられる強い根拠となっているのです。創世記は重複の多い書ですが、創造物語はその代表の一つです 。

二つの創造物語を比べて見ると、次のような特徴がみえて、それが別々の著者によるものであることがわかります。まず、神の呼び方が違います。第一の物語では一貫して、創造主をただ「神」と呼ぶのですが、第二の物語では必ず「ヤーウェ」(エホバ)という 神の名前を使用しています。次に、使用されている語彙が違います。例えば、 第一の物語で使用されている「バーラー」(創造する)というヘブル語が、第二の物語では決して使用されていません。

また、文体も違います。 第一の物語は荘厳で繰り 返しの多いリズミカルな詩的文ですが、 第二の物語は散文です。また、両者には深い神学的相違があります。 第一の物語では、神は人間の手の届かない、遠い天のかなたに君臨する何か抽象的な想像を絶する絶対者として考えられていますが、 第二の物語では、人間が粘土から土器を作るように「土の塵で人を形づくり」、人間のように「息を吹き入れ」た り、人間と自由に会話したりする、きわめて「人間的な」神です。

現代聖書学の研究の成果によると、 第一の物語は祭司資料(P資料)に属するものであり、西暦前六世紀のユダ王国滅亡前後、祭司階級の著者よって制作されたものである、と推定されています。第二の物語はヤーウェスト資料(J資料)に属するものであり、西暦前十世紀以降、ダビデ・ソロモン王朝(南朝ユダ王国)に関係を持つ者によって制作されたものである、と推定されています。したがって、上述の創造順序の食い違いやその他の例における多くの矛盾は、それが時代をかなり隔てて別々に成立した資料であることから生じているといえるでしょう。

また、ノアの洪水の物語に関しても述べたことですが、二つの物語の相違のひとつひとつを別々に見れば、それらに対する反論も可能かも知れませんが、一組の相違による資料の分類がちょうど他の組の相違による分類と一致し、しかも、そうして分類された資料層のそれぞれが独立して、完結した物語になっている事実が、二資料説の強力な裏付けとなっています。